落語のひととせ 12 冬の部2

  鍋物 その2              (ねぎまの殿様、居酒屋、ずっこけ)
   ねぎま                         (ねぎまの殿様)
 現代の居酒屋で「ねぎま」というと「葱間」で、葱と鶏肉が交互に串に刺された焼鳥が出てくるでしょう。江戸では、葱と鮪を煮た「葱鮪」鍋のことです。ついでに、魚について、「中落ち」という言葉ですが、今では、鮪の中骨に付いた身をこそげ落としたものと思われていますが、もともとは魚を三枚に下ろした時の中骨の部分をさし、江戸では鰹の中落ちを煮て食べることが行われていました。歌舞伎の『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』で、主人公の髪結新三が鰹を買い、大家に鰹を半分分けるくだりがあります。強欲な大家は、中落ちの付いた、つまり中骨の付いた方の身を手にして、「中落ちを煮て食うとうめえからな」「鰹は半分貰っていくよ」と言います。この鰹の中落ち、骨のすぐそばの部分に血合いがあり、煮るとおいしいのですが、一匹で流通することが少なくなったので、幻の味になってしまったようです。また、この中骨が付いた半身を、歌舞伎の人々が「中落ちの付いた鰹」と呼んでいるのを聞きました。
 さて、そのねぎま鍋ですが、「さい鍋」同様に、鮪の赤身とぶつ切りの葱を醤油で煮た安直な食べ物でした。鮪は、現代では大とろ、中とろが珍重されますが、江戸時代には、とろの部分はすぐ臭くなり、犬にやるか捨てるかという扱いを受けたもので、赤身をもって上としたものです。
 お出かけになった殿様、ご帰館の途中で空腹になってしまいました。さんまの殿様同様、どうにも我慢できず、三太夫と一緒に、そこにあった居酒屋に飛び込みました。武家の腰掛けと言えば床几ですが、そこにあったのは醤油樽で、何とか腰を下ろしました。何を食べて良いかわかりませんが、品書きの最初に書いてあったねぎまと酒を注文しました。店の者が早口で、ねぎまがどうしても「にゃあ」としか聞き取れません。
 すぐに「にゃあ」が出て来ました。鮪は赤身も血合いもあり、葱は白いところに緑のところ、ついでに枯れたのまで入っていて、赤、黒、白、緑、茶と、とても色彩豊かです。殿様は、「これがにゃあか、三毛じゃな」と言いながら葱を口にすると、芯の熱いところが喉に飛び込んできて、やけどをしそうになります。「この白い物 は何じゃ、葱か。この葱は鉄砲仕掛けになっておる」と言いながら、酒を二合と鍋をぺろりと召し上がりました。一緒に店に入った三太夫は、このことは屋敷に帰ってもご内聞にと願い上げました。
 しかし、いくら頼まれても、楽しい思い出というものは忘れることができないもので、殿様は「にゃあ」が忘れられません。殿様のお好みの献立を作るという時があり、お膳番が殿様の御前に出ると、「余はにゃあである」との仰せです。これにはお膳番がびっくり、「にゃあとは何か」「聞き違いではないか」「まさか猫を召し上がるのではなかろう」と結論が出ません。ひょっとしたら先日のお出かけの時に何かを召し上がったのではないか、これは同行の三太夫殿に聞くのが一番だということになり、三太夫に尋ねます。
 三太夫は、殿には口止めをしたが、実は居酒屋に入ってねぎまを注文したと話します。「しからば、にゃあとはねぎまのことか」と判り、お膳番一同ほっとしました。殿様が召し上がるのだから、鮪の中でも良い赤身だけを使い、味の出る血合いは捨ててしまいます。葱は本場の深谷から取り寄せ、白い部分だけを使います。先日の居酒屋での彩り豊かな鍋と違い、たった二色の鍋になりました。
 運ばれた鍋の蓋をわくわくしながら取った殿様は驚いて、「匂いは似ているがこれではない、三毛のにゃあを持て」と仰せです。家臣協議の結果、一食くらいなら体に障りはなかろうと、居酒屋仕立てのねぎまを出します。味も先日に近く、葱も鉄砲仕掛けになっていて、殿様はますます大満足、居酒屋を思い出し、「これ、醤油樽を持て」。
 筋立ては「目黒のさんんま」とほぼ同一ですが、さんまの殿様とは違い、大満足をなさった咄です。残念ながらねぎまが一般的ではなくなったので、聞く機会が減っています。
   鮟鱇鍋                       (居酒屋・ずっこけ)
 表を歩いていたら、居酒屋の小僧の注文を通す声の響きがあまりに良いので、ついふらふらと入ってしまいた。まず一合頼むと、「お酒は澄んだんですか、濁ったんですか」「おう、変なことを言うねぇ、もちろん澄んだのだ」「へえ、上一升ーぅ」と、豪勢に言われてびっくり、「これは景気づけですよ」と言いながら酒を運んで来ます。どうせなら酌をしてくれと頼んだとろろ、「あいすいません、混み合いますんで、お酌は銘々で願います」とつれない返事です。思わず店内を見回すと、今は誰もいないのにと、文句を言って、小僧さんに白魚を並べたのとは遥かに遠い指でお酌をしてもらいました。
 一口飲んでほっとしたところ、「お肴何にします」とせっつかれました。「何が出来るんだい」「出来ます物は、汁(つゆ)、貝柱(はしら)、鱈昆布(たらこぶ)、鮟鱇のようなもの、鰤にお芋に酢蛸でございます、ひぇーい」。この早口の言葉は、初めての耳には「ごにょごにょごにょ、ぴー」としか聞こえません。もう一度言わせて、この中の物はみんなできるんだなと念を押してから、「ようなもの」を注文したもので、「そんなものは口癖ですから出来ません」「口癖でいいから持ってこい」、と,、らちがあきません。
 小僧さんは壁に貼ってある品書きを示すと、最初に書いてある「口上」をと言われます。口の上だから唇でも食べさせるのかと思ったと無理問答、酔客はこんな遣り取りを楽しんでいます。品書きのあれこれをいろいろ言ったあげく、「あそこにぶら下がっているのは」「鮟鱇です、鮟鱇鍋にしますか」「いや、あの庖丁持って鉢巻きして考えてるのは誰だ」「うちの番頭さんです」「あれを一人前持って来い」「番頭さんは食べられません」「そんなことはない、番公鍋だ」。
 酔客と小僧さんの肴をめぐる軽妙な遣り取りで楽しませてくれます。三代目三遊亭金馬の十八番でした。その弟子の桂文朝は落ちを一つ捻って、「番頭さんは鍋になりません、おかまですから」とやっていました。小僧さんの口上も少し異同があり、本によると、貝柱と鱈昆布の間に、「巻繊(けんちん)、お浸(した)し」が入っていた時代があったようです。
 この咄はさらに続きがあって、店が看板になっても酢客は帰らず、ぐずぐずやっています。そこへ友達がやってきて、事情を聞くと、一文も持っていないのに小僧さんの声で入ってしまった、こうやっていれば誰かが来て勘定を払ってくれるだろうとつないでいたと言います。友達は代金を払い、ぐずぐずになった男を抱えて帰ります。男の家まで行くと、着物だけで中身がありません。慌てて探しに行くと、角に落ちていました。お神さんが、「お前さん、よく拾われなかった」。
 ここまで話すと、題は「居酒屋」から「ずっこけ」へと変わります。ここでは念のために標題に両方を掲げておきます。

  鍋物 その3              (池田の猪買い、市助酒、二番煎じ)
   猪鍋                 (池田の猪買い、市助酒、二番煎じ)
  江戸時代、鶏、雁・鴨、雉子などの鳥や、鳥の仲間として兎の肉を食べましたが、表向き獣の類を食べることはありませんでした。それでも栄養不良になり、体力が落ちると、「薬食い」と称して、猪を食べました。それでも獣類の肉を食べるということに抵抗があるようです。その抵抗を和らげる食物として鯨がありました。鯨は哺乳類ですから獣の仲間になるはずですが、海で獲れるので魚の仲間という扱いになります。葛飾北斎の「千絵の海」という浮世絵の連作の中に、五島の鯨獲りが描かれていますし、鯨の脂肪層から作る晒し鯨は、くじら汁として、抵抗なく広く食べられていて、多くの人になじみ深いものです。そこで、猪は山で獲れる鯨だとみなして、「山くじら」と呼び、猪を食べるようになりました。猪鍋を食べさせる店もできました。それは、前に薩摩芋のところで紹介した焼芋屋の看板を描いた歌川広重の「びくにはし雪中」に「山くじら」の文字の看板が描かれていることで解ります。
 猪肉は、体力を付け、体を温めてくれます。冷えの病で、猪肉を食べると良いと言われた喜六、同じ猪肉でも、獲れたてのほうがずっと体に良いと言われ、山へと買いに行きます。この咄は上方を舞台にしているので、行く先は池田、山猟師の六兵衛さんを訪ねます。雪の中、たっぷり着込んで六兵衛さんの家に行くと、昨日獲ったのがあると言われますが、とにかく新しいのをと教わって来たので、いつ獲ったか知れんと、信用しません。とにかく獲れ獲れをと「こんな雪の日は猟がたつ」と六兵衛さんを引き出します。喜六も一緒に行くと、牡牝の二頭います。どちらが良いと訊かれた喜六が迷っているので、いらだった六兵衛さんはズドンと一発、猪はくるくる回って倒れます。猪に近寄った二人、今撃ったのを見ていながら喜六は、これは古い猪とすり替えたのではないかと疑います。怒った六兵衛さんは猪の尻を鉄砲の台尻で一つ殴ります。すると撃ったと思った猪は気絶しただけだったので、とことこと走って逃げます。「ほら客人、あの通り新しい」。
 池田は阪急電鉄小林一三が住み、その旧宅が逸翁美術館になっていて、今や住宅地ですが、昔は猪を追った土地でした。殿様がさんまを召し上がった目黒といい、いずれも今昔の感です。
 冬場は火を使うことが多くなるので、火事が多くなります。火を出せば何の保障もなく焼け出されるだけでなく、下手をすれば連帯責任で所払いということにもなりかねません。そこで、自衛のために金を出し合って、火の番を雇います。夜に一軒一軒回って火の用心の声を掛けるのですが、寒いから一杯飲んで回るのもいます。ある晩、この火の番が酔って何度も何度も声を掛けるので、番頭がうるさいと叱りました。これを訊いたその家の旦那が番頭を叱り、寒い夜に回ってくれるのだからいたわってやれと諭します。次の晩、昨晩叱られたので声を掛けずに通り過ぎようとする火の番を、番頭が呼び止め、侘びながら一杯飲ませます。その次の晩、火の番が「火の用心お願いします」の声が掛かったので、番頭が「うちはきちんとやっていますよ」と答えると、「なあに、お宅は焼けたってようござんす」。
 厳重な警備などなさらず、ほどほどにゆっくりお休みくださいという感謝の気持ちがこんがらがってしまいました。
 ある町内で、火の番が辞めてしまいました。そこで、各戸から一人ずつ出ることにして、番小屋に集まりました。商家からは、番頭以下は一日働いて疲れているので、主が出ることになりました。こんな寒い夜は奉公人がうらやましいというささやかな愚痴が漏れます。全員で回るのも大変だから、集まった人を二つの組に分けて、交互に回り、交互に休もうではないかという提案に全員が賛成しました。
 一の組が出掛け、寒さに震えながら番小屋に帰って来ました。小屋にたどり着くと、先生からは瓢簞入りの酒が出、宗助さんは懐から竹の皮包みの猪肉を、背中からは鍋を出しました。役人が回ってくる小屋で瓢簞からの酒を飲むわけにはいかないので土瓶に移し替え、箸が一膳しかないので箸を順番に回して猪鍋をつつきながら酒を飲みます。小声の都々逸が出て、気分が良くなったところで、表で「ばん」と言う声、横丁の犬かと思って追い払ったのですが、入ってきたのは見回りのお役人です。あわてて酒と鍋を隠します。宗助さんは熱々の鍋の上に座る羽目になってしまいました。
 うまく隠せたと思ったのですが、お役人の目は隠せません。「土瓶のようなものは何だ」「あれは、宗助さんが風邪を引いていて、風邪薬でございます」「身共も両三日風邪を引いておる、風邪薬ならば一服所望したい」と言われ、恐る恐る差し出します。「ところで、鍋のような物があったが」「あれはこの宗助さんが」「およしよ、名前を出すのは」「あれは風邪薬の口直しでございます」「口直しとあらば、こちらにも願いたい」と食べ、お役人はさらに飲みます。このままでは全部飲まれてしまうと、「薬がなくなりました」「さようか、では拙者、一回りしてくるので、二番を煎じておけ」。
 温かい酒と猪鍋、風邪にきっと効きます。この咄の中に、「どんなに熱くても猪の肉ではやけどをしない」という言葉が出てきます。残念ながらこの咄を聞いて以後に猪肉に巡り合えませんので、試したことがありません。ここの「二番」は、「一番、二番」という時の二番とはアクセントが違います。

   卵酒                              (鰍沢
 江戸の人が風邪の妙薬として口にしたものに卵酒があります。卵酒とは、酒に少量の砂糖を加え、かき混ぜた卵を入れて温めるというもので、体が温まります。今日では甘酒が使われることもあるでしょうが、前に述べた通り甘酒は暑気払いに用いられるもの、冬は栄養に富む卵酒となっていました。
 身延山といえば、日蓮宗では池上の本門寺と並んでの本山として尊まれていて、宗旨の人は一度はお参りをしたいと願う土地です。身延参りの旅人が、雪深い山中で道に迷って困っていました。旅人の目に一軒の火が見え、これぞお祖師様の導きと立ち寄って道を尋ねれば、中から女性の声で道を知らないと言われました。
 旅人は一夜の宿を頼んで入れてもらい、ようやく囲炉裏端に座って暖まることができました。この家の女主と話しながら相手を見ると、喉元に傷はありますが、美しい人です。旅人は、しげしげと見て、「あなたは熊蔵丸屋の月の兎(と)花魁ではありませんか」と訊きます。主はびっくりして、「おまはん誰なの」と逆に尋ねられ、旅人は、以前、酉の市の晩、初めて吉原に行き、その時に出たのが月の兎で、その夜には連れが泥酔して、縁日で買ってきた唐の芋を踏んで滑って大騒ぎをしたと答えます。さらに、数年経って吉原に行ったら、月の兎は心中したと言われたと言います。元月の兎の女主は、心中のし損ないで逃げ出し、その時の男が熊の膏薬を作って売ってこの山中で暮らしていると語ります。
 旅人は、胴巻から金を出し、女主に土産代わりと金を渡します。女主はそれに素早く目を走らせますが、何くわぬ顔で、卵酒を作ってあげようと手早く支度をして、旅人に勧めます。旅人は出来上がった卵酒を口にし、しばらくすると旅の疲れもあって、隣の部屋の夜具に入ります。女主は旅人が寝込んだのを見届け、亭主に飲ませる酒がなくなったので買いに出掛けます。
 その留守に亭主が帰ってきて、飲み残された冷めた卵酒を「冷えた卵酒は生臭い」と言いながら、全部飲んでしまいます。そこへ女が帰ってきました。亭主は、女が旅人を殺そうと卵酒に入れた毒で体が動けなくなっています。亭主は苦しみますが、もうどうしようもありません。この騒ぎで目を覚ました旅人は、体がしびれながらも外へ出て、小室山で受けた毒消しの御封を飲み込んで、どうにか体が動くようになり、転がるように逃げて行きますが、崖に行き当たってしまいました。女が後ろから銃を持って追い掛けてきます。進退きわまったところ、突然崖の雪が崩れ、旅人は下の筏の上に落ちてしまいました。筏は水かさの増した鰍沢の急流の中を流れて行きますが、だんだんに藤蔓が切れ、丸太一本だけになってしまいました。女が上から狙って撃った銃弾は、旅人の髷をかすって後ろの岩にカチーンと当たります。「ありがたい、この大難を逃れたのもお祖師様の御利益、お材木で助かった」。
 この咄は、初代三遊亭圓朝が「小室山の御封、卵酒、熊の膏薬」の題で作った三題咄と言われます。ただし、題には諸説あります。落ちはお題目とお材木とを掛けていて、これは「おせつ徳三郎」という長い咄の落ちと共通です。落語事典によると、もとは芝居咄で、「思いがけなき雪の夜に、御封と祖師の利益にて、不思議と命助かりしは、妙法蓮華経の七字より、一時に落とす釜ヶ淵、矢を射る水より鉄砲の肩をこすってどっさりと、岩間にひびく強薬、名も月の輪のお熊とは、くいつめ者と白浪の深きたくみに当たりしは、後の話の種子島、あぶないことで、あったよな、まず今日(こんにち)はこれぎり」となっていたそうです。
 途中に旅人が初めて吉原に行ったのが酉の市の日とあります。これは十一月の酉の日に行われる鷲(おおとり・大鳥)神社のお祭りで、一の酉、二の酉、三の酉と呼ばれ、三の酉まである年は火事が多いと言われます。この日は、おたふくや小判などを付けた縁起物の熊手や唐の芋などが売られます。熊手は毎年大きな物に買い換えていくのが縁起担ぎで、買い手は売り手の言い値を値切りますが、値切った額との差を祝儀として置いていくのが粋とされていました。
 吉原に近い鷲神社の酉の市が有名で、お参りの帰りに登楼する客が多いので吉原は大変に賑わいました。酉の市は、古くは酉の町とも言われ、歌川広重の「名所江戸百景」は「浅草田甫酉の町詣」と名づけられ、吉原の二階座敷から酉神社へ参詣する人の波を浅草田甫越しに猫が見ている絵があります。
 鰍沢の急流は富士川に合流して、東海道の吉原宿と蒲原宿との間(あい)の宿の岩淵へと流れると説明されています。その急流は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」中の「甲州石班沢(かじかざわ)」に描かれています。

   炬燵                  (按摩の炬燵、牛の丸薬<がんじ>)
 夕立屋が竜、冬はその子の子竜(こたつ)が暖かくしてくれるというという咄は夏の部でご紹介しました。その炬燵には、いろいろな物語があります。炬燵に入っても背中が寒いので、「炬燵<二つ>良いことがない」という小咄もありますが、稽古屋で男の弟子たちが炬燵に入っていたら女師匠が入ってきました。一人の弟子が、炬燵の中の女師匠の手に一本ずつ指を乗せていきます。向こうが逃げないので、今度はそっと握ったら、向こうも握り返してきました。しめたとじっとしていると、師匠のおっかさんが御飯だよと呼び、師匠がすっと立ってしまいました。さて握っているのは誰だと手を引っ張ったら、向こうで変な顔をしているのがいます。「何だ、お前か」とがっかりという咄もあります。「炬燵から猫もあきれて顔を出し」という臭い川柳もあります。
 また、乞食が犬を飼っていて、寒くなると炬燵代わりに犬を抱いて寝ています。ある夜、寝返りの時に尻尾を踏み、噛みつかれました。「あちち、やけどした」。
 ある商家で、毎晩とても寒くて眠れません。番頭は炬燵を入れても良いと言われているのですが、小僧が火でも出したら言い訳が出来ないと我慢をしています。その時、奥で療治を終えた按摩さんが出て来ました。そうだ、按摩さんに一杯飲ませて暖かくなったところで炬燵になってもらおう、これなら安全だと一計を案じました。按摩さんも家へ帰っても寒いし、一杯飲めるということで、承知しました。按摩さんが一杯飲んでいい気分で蒲団の中に入ったところ、前後左右から冷たい足を押しつけられ、閉口します。頭を足で挟む者、股へ足を入れてきて変な気分にさせる者、はては臭いのを一発やる者まで出て来ましたが、我慢しました。そのうち小さい足が伸びてきたので、いつもお使いに来るから当たらせてやるよと優しく温めてやりました。そのうち、小僧が、「もう我慢できないから、この溝(どぶ)へやっちまうよッ」と言うなり、寝小便をしてしまいました。按摩さんはもう炬燵にはなっていられないと起き上がります。番頭が「もう一度炬燵になっておくれ」「小僧さんがこの通り、火を消してしまいました」。
 この咄は、店に出入りする人で、酒が飲めて、泊まれる人という条件があれば、目の不自由な人でなくても良いのですが、さてそういう条件で探すと、按摩さんがすぐ見つかったのでしょう。「麻のれん」の按摩さんといい、被害に遭うのはお気の毒です。
 今度は上方の咄です。昔、奈良地方で作られたので大和炬燵と呼ばれた、土を練って作った置き炬燵がありました。置き炬燵には、大和炬燵以外に次のような炬燵があります。木組みの枠を置いて上に蒲団を掛けて用いる櫓炬燵、火入れは土製で、外側の枠組みは木または土製で、炭火を入れて手足を暖める行火、浅草今戸焼で、中に入れた火桶を上から覆うようにし、側面に穴を開けた火鉢で、蒲団の中に入れて用いる猫火鉢、小火鉢を横向きの小箱に入れたもので、老人の寝床に用い、辻番や中間などが用いたところから名が付いた辻番炬燵です。
 さて、大和炬燵の古いのを見て、これで一儲けしてやろうと思いついた男がいました。大和炬燵に水を掛けてぐずぐずにして丸薬を作り、これを牛の病気の妙薬として売るのです、仲間として喜六を誘い、農家へ行きます。最近牛が突然苦しむ奇病が流行っているが、その病気の妙薬を持っていると、家の人に話します。その間に喜六が牛小屋へ行き、鼻へ煙管で胡椒を吹き込みます。農家の人は牛が突然苦しみ出したのでびっくりして、薬を頼みます。喜六がすぐさまその丸薬を牛に与え、鼻を水で洗ってやると牛の苦しみはけろりと治りました。これはすごい特効薬だとその家の人が近隣に触れ回り、皆、牛が発病したときの用心にと、丸薬を求め、売り切れになりました。喜六が代金を入れた袋を持ち、「だいぶ懐が温(ぬく)うなったやろ」「温うなるはずじゃ、もとが大和炬燵」。
 現代、あやしげなサプリメントの広告に釣られて大枚を払ってしまう被害者がいます。この牛の丸薬は、実にうまく仕組んで稼いでいます。だまされた農家の人も、牛が発病しない限りこの薬を使いませんから、牛にも被害はなさそうです。この咄に登場する喜六は、他の咄の少し抜けている人柄の喜六とは違い、余計なことは言わない、しないの見事な助手役を務めて稼ぎました。

   木枯らし                        (文七元結、鼠穴)
 本所達磨横丁の左官の長兵衛は、腕は確かなのに博打にのめり込んで、借金だらけで、木枯らしが身に沁みます。今日も今日とて、一つ目と出れば借金は返せ、みんな豊かな暮らしが出来ると一攫千金を夢見て着物まで賭け、博打場の袢纏を貰って帰って来ました。すると家の中は暗く、お神さんが泣いています。聞けば一人娘のお久がいなくなったというのです。色気付いての駆け落ちか、行き方知れずならば高尾山の呼ばわり山へでも行ってみようかと思いながら、夫婦喧嘩になりました。
 そこへ、吉原の大店の佐野槌から長兵衛を迎えに来ます。塗りの仕事を途中で放り出してしまったからのお叱りの呼び出しかと思いましたがそうではなく、お久が来ているという迎えです。外へ出ようとしましたが賭場の袢纏では出られず、女房のたった一枚の着物を脱がせて出掛けました。女性の着物は袖付けの下の八ツ口が開いているので、すぐ判りますが、そんなことは言っていられません。
 佐野槌に着いた長兵衛は、お久が父と博打狂いが止まないので、自分が吉原に身を沈め、その金で借金を返させて立ち直ってもらおうと佐野槌の女将に泣きついたと聞かされます。この孝行話に佐野槌の女将は貰い泣きして、長兵衛に来年の大晦日まで五十両を貸す、お久はそれまで店には出さずに身の回りの世話をさせ、芸も教え込んでやる、その替わり、期限までに五十両が返せなければ、お久を店に出すと、きつい励ましの言葉を掛けます。
 長兵衛は、もう博打はしない、きっと迎えに来るからと約束して、泣きながらの帰り道、吾妻橋まで来ると、身投げをしようとする手代を助けました。話を聞けば、小梅の水戸様で集金した五十両を懐にして帰る途中、人相の悪い奴に突き当たられて盗られたと言います。長兵衛は何とか死ななくて済む方法はないかと説得しますが、手代は一途に思い詰めていますので、とっさに懐の五十両をやってしまいます。借りた五十両と借金の五十両、とても一年余で稼げる金ではないから娘は女郎になる、でも死ぬわけではない、この若者は死んだらおしまいだと、長兵衛は金を手に入れたいきさつを簡単に語って、五十両を叩き付けるようにしてこの場を去ります。
 長兵衛が家に帰れば、金は何に使った、お久はどうすると夫婦喧嘩が始まりました。一方手代は、横山町の鼈甲問屋の手代で文七と言い、遅くなって店に戻れば、代金を置き忘れたので、金の方が先に帰っていました。碁が好きで、集金先で碁を打って夢中になり、碁盤の下に置き忘れたのでした。
 薄汚れた女の着物を着た人が五十両という大金を持っているとは思わず、話もいい加減に聞いていたので、どこの誰かはわからないという文七の記憶を、番頭がほぐしてゆきます。そして、記憶の中から佐野槌という店の名が浮かびました。
 翌朝、番頭と鳶の頭が佐野槌へ行ってお久を身請けし、旦那は文七を連れて達磨長屋へ向かいます。角の酒屋で酒を買って長兵衛の家を尋ねると、喧嘩を目当てに行けばわかると教えられます。長兵衛の家に着いた二人、礼と共に五十両を出すと、「一度やった物は受け取れねぇ」と江戸っ子のやせ我慢をします。女房が袖を引くので、「どうか言いふらさないでくださいよ」と言いながら、実は喜んで受け取ります。そこへ、「お肴を」と昨日にうって変わってきれいになったお久が出て来ます。お久が帰ったと大喜び、親子の者は抱き合って泣きました。やがて文七とお久は夫婦になり、麹町貝坂に元結屋を開いたというお咄です。「柳田格之進」といい、碁は事件を招きます。
 なお、高尾の呼ばわり山とは、今熊山という山で、ここで行方不明の人や失せ物を戻してくれと叫ぶと出てくると信じられていた山です。町中での迷子ですと、石柱の左右に「たづぬる方」「おしゆる方」と彫られた月下氷人石が建てられています。
 木枯らしの強い夜が出てくる咄があります。
 親の遺産を分けた兄弟がありました。兄はそれを元に商売をして成功、弟は飲んですっかり無くしてしまいました。心機一転、何とかしたいので元手を貸してほしいという弟に、兄は三文貸します。馬鹿にしているのかと怒った弟は、俵のさんだらぼっちを買って緡にして売り、朝は「なぁっと、なっと」と納豆売り、昼前は「豆腐、生揚げ、がんもどきぃ」、昼過ぎは「金ちゃん、甘いよ」と茹で小豆、暮れ方には「うでだーしぃうどーん」とうどん売り、夜には「お稲荷さぁん」と稲荷鮨を売り歩き、とうとう、深川蛤町に蔵の三戸前もある身代になり、嫁をもらい、子も出来て落ちついた暮らしになります。ある風の強い夜、弟は借りた金を返そうと思い立ち、番頭に、蔵の鼠穴にはくれぐれも注意してくれと言って出掛けます。
 兄の家で、昔話をしながら和解した二人、遅くなったから泊まっていけという兄に、土蔵の鼠穴が心配だから帰ると言う弟、兄は、もしお前の家が焼けたらこの身代をそっくりやると言います。寝に就いた夜中、半焼が鳴り、火事は深川蛤町、慌てて駆けつけた弟は、番頭が手入れを失念した鼠穴から火が入って三つの土蔵が焼け落ちるのを見ました。
 弟はわずかに残った元手で商売を始めましたがうまくいかず、兄に相談すると、身代をやると言ったのは、酒が言わせたものだと取り合いません。すると、まだ小さい娘が、私を吉原に売って、それで商売を立て直してと言います。弟は泣く泣く娘を売り、見返り柳を出たところで突き当たられ、懐の金を盗まれてしまいます。もうだめだ、と首をくくったと思ったら、まだ金を返しに行った時の兄の家の床の中で、火事から以後のことは夢でした。「火事の夢は燃えさかるというから、これからますます商売が大きくなるぞ、しかし、妙な夢を見たな」「鼠穴が気になって」「はっはっはっ、夢は土蔵(五臓)の疲れだ」。
 木枯らし吹き荒れる夜の夢でした。落ちは、夏の部の「夕立その1」で書いた「宮戸川」と同じ慣用句「夢は五臓の疲れ」を使っています。これでは同じ日に「宮戸川」と「鼠穴」を出すと咄が重なるかというと、「宮戸川」は前半の「白い脛がすーっ」で切るのが多いので、問題になりません。