浮世絵漫歩23 名所江戸百景2

名所江戸百景から 日に三つ
「日に三つ散る山吹は江戸の華」と言われます。この三つは千両箱のことで、江戸には日に千両の金が動く場所が三つあったと言うことです。その三つの場所は、魚河岸と芝居町の猿若町と吉原遊廓です。その風景を「名所江戸百景」から抜き出しました。「名所江戸百景」は初代歌川広重による連作で、安政3年(1856)2月に刊行が開始されました。出版にあたっては、当時の版元の月行事に原稿である版下絵を提出して、検閲を受け、承認の印である改印を受けます。これにより、およその出版年月が判ります。
 最初は、魚河岸です。絵の題は「日本橋江戸ばし」(安政4年12月改印)。魚河岸は、寛永年間に日本橋に設けられました。日本橋は、京橋、新橋と並んで、欄干には擬宝珠が据えられている格の高い三つの橋でした。また、この三つの橋の地域は、江戸の中心地として賑わっています。
 この絵は、早朝に魚を魚河岸で仕入れて、ようやく明るみ始めた江戸の町へと売りに出掛ける魚屋の桶に焦点を当てました。桶には、見栄っ張りで初物好きの江戸っ子が女房を質に置いても食べなければと意気込む初鰹が目を光らせて入っています。向こうに江戸橋が見える景です。

 

 次は、芝居町です。絵の題は「猿わか町よるの景」(安政3年9月改印)。早朝から幕を開け夕方まで上演してする芝居町です。江戸では、中村座森田座市村座の順で創設され、三つの座元が幕府による興業許可を得ました。その印として小屋の正面には座の紋を描いた櫓を掲げました。定式幕という引き幕があり、その色配列は、中村座が黒・柿・白、森田座が萌葱・柿・黒、市村座が黒・柿・萌葱です。現代の劇場のように上下する緞帳は、定式幕を許されない格の低い芝居で採用された物で、「緞帳芝居」とおとしめられました。この三座それぞれに経営不振に陥ったときに興業を肩代わりする控え櫓という座があり、中村座に都座、森田座河原崎座市村座に桐座が控えていました。三座は別々の場所で興行していましたが、天保の改革で12年(1841)に中村座、翌年に市村座、翌々年に森田座の順で猿若町に移転してきました。
 この絵は、芝居の終演後、芝居小屋とそれに向かい合わせに立っている芝居茶屋の人々の姿です。芝居帰りの人々目当てに寿司などの屋台が出ています。浮世絵には珍しく、影が描かれています。

 

 三番目は、吉原遊廓です。絵の題は「浅草田甫酉の町詣」(安政4年11月改印)。吉原遊廓は、当初日本橋に作られましたが、だんだんに繁華な土地になり、明暦2年(1656)の大火後に浅草観音の北側の田圃の中に移されました。江戸城からみても北に当たるので北国、「きた」とも通称されました。また、中央の通りの仲の町から、「なか」とも呼ばれています。周りの田圃は浅草田圃、吉原田圃と言われ、「惚れて通えば千里も一里、広い田圃も一またぎ」と謳われました。
 この絵は、十一月の酉の日、吉原に近い鷲(おおとり)神社は、縁起を祝う酉の町詣での人の列を吉原の二階座敷から猫が見ている場面です。西の富士山に残照が残り、人の列の上側には熊手の形が見えます。この日は、紋日・物日と言われる吉原のかき入れ時、遊女は客を呼ばなければなりません。屏風の陰には、もう馴染みの客が登楼しているのでしょうか。