落語のひととせ 3 春の部3

   花見 その1                         (花見酒)
 花と言えばやはり桜、桜が咲くと人の心はぱっと浮き立ちます。「梅は咲いたか、桜はまだかいな。山吹ゃ浮気で色ばっかり、しょんがいな」という唄の通り、桜の咲くのを人々は待ち兼ねています。ちらほらでも咲き始めれば、「銭湯で上野の花の噂かな」にもなり、「佃育ちの白魚(しらを)でさへも、花に浮かれて隅田川」ということになります。芭蕉は、「木のもとに汁も膾も桜かな」「さまざまのこと思ひ出す桜かな」と詠んでいます。さらに時代を遡れば、在原業平が「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と、花が咲いたとか散ったとか、一喜一憂するのはいやだと桜に心を奪われる様を歌っています。もっと乱暴な物言いは、「やい桜咲きゃあがったか畜生めうぬ(汝)がおかげで今日も日暮らし」というのもあります。こんなにも桜は人の心を吸い取ってしまいます。寛政の改革で人々を締め付けたと言われている老中松平定信も、「富士筑波花の木の間にほの見えてをちこち霞む春の山風」とのどかに詠んでいます。現代はソメイヨシノが広まっていますが、ソメイヨシノは江戸時代末期から明治時代にかけて生まれた品種ですから、今の桜とは、また雰囲気が違うのでしょう。
 さて、どこから花見を始めましょうか。上野、向島、少し離れて飛鳥山ととりどりです。この上野は、かたじけなくも一品宮法親王様がおいでになられるので、鳴物は禁止、しかも、山役人という警備人がいて、夕方には締め出されてしまいますので、とにかく静かに花見をするしかありません。皇居東御苑や大阪造幣局の通り抜けのようなものです。講談には、元禄時代、上野の花見の時に十三歳の秋色女(しゅうしきじょ)が「井戸端の桜あぶなし酒の酔」と詠み、その桜を秋色桜と呼んだという一席があり、その句を刻んだ石碑が今でも建っています。
 羽を伸ばしたいので向島へ出かけましょう。向島に桜を植えさせたのが八代将軍徳川吉宗で、江戸っ子の行楽地になりました。向島の土手には酒屋がないから酒を持参しなければなりません。酒飲みというのは、あればあるだけ飲んでしまって物足りなくなることがあり、無いとなると余計飲みたくて酒を探すことがあります。そんなところに目を付けて、一儲けを企んだ男がいました。まず友を語らい、酒屋からツケで一樽買ってきて、釣り銭が無いといけないので、小銭を一枚持ち、差し担いで向島へと出かけました。歩き始めると、先棒は何も感じませんが、後棒は酒の良い香りがぷんぷんしてきて、我慢できません。懐には用意した釣り銭があります。「兄い、俺に一杯売ってくれ」「ああ、いいとも、誰に売ったって一緒だ」と一杯売ります。今度は前後入れ替わって歩き始めると、後棒になった兄貴が我慢できません。「これは俺もたまらねえや、一杯くれ」と釣り銭が移動します。向島まで前後を入れ替えては交互に飲んで、釣り銭は二人の間を行ったり来たりしました。さて、向島に着いて商売を始めると、早速のお客、「おう、一杯くれ」「へえ、ありがとうございます」と汲もうとすると、中は空です。「すいません、売り切れで」。売り切れたのだから売り溜めはと二人が懐を探ると、釣り銭が一枚だけ。「あれ、おかしいな、最初あそこでお前が一杯、次に俺が一杯、次にお前で、やったりとったり、うーん、してみると無駄ぁない」という、よくできた咄です。この咄を基に『花見酒の経済』という本を書いて、日本国は一時の快楽に浮かれているが実質がないという分析をした人もいました。
 酒一杯の金額を気にする方もがいます。時代設定を江戸時代にすると、一文銭や四文銭を使いますから、釣り銭がいらなくなります。一杯一朱では高すぎます。速記本を見ると、一杯十銭にして、二十銭貨を出されるといけないので十銭貨を持っていく形、少し物価が上がって、一杯五十銭で一円に対して五十銭を持って行く形があります。ツケで買った酒の量も、ある程度の金額になる、二人で担げる、飲みながら向島まで行ける、向島までで飲み終わる、という条件を考えていくと、訳が判らなくなります。すべて鷹揚に、こんな酒飲みの失敗段がありましたよー、と笑うのが、咄の世界のお約束です。

   花見 その2                         (百年目)
 ある大店に、奉公人に厳しい番頭がいました。今日も今日とて、小僧から始まり、上の者へと順に小言を言っています。「昨晩は遅いお帰りで」という問いに、知り合いの番頭さんに誘われて旦那の謡の会に誘われ、その後、お茶屋で芸者、太鼓持ちを上げて、という詫び言に、「お茶屋とは、葉茶屋ですか」「芸者という紗(しゃ)は何月に着るんですか」「太鼓持ちという餅は焼いて食うのか、煮て食うのか」と、ねちねちと嫌みを交えて問い詰めをします。
 この謹厳実直な番頭が、一歩店の外へ出ると、がらりと変わった通人振りで、今日は、なじみの芸者・太鼓持ちと一緒に向島へと船で花見に出かけます。柳橋から向島までの屋形船の船中では、外から見られないようにと障子をぴったりと閉めさせ、むんむんとした中で飲んでいます。
 さて,向島に着くと番頭は酔いが回り、暑さもあって障子を全部開け放させます。さて障子を開けてみると、向島の土手は薄紅を刷いたような美しさです。土手の上では酒を飲む人、追い掛けっこをする人、老若男女が集まってわっ、わっという騒ぎです。これにつられて一行も船から上がり、酔った番頭が鬼になって、扇で顔を隠し、「捕まえた奴には一杯飲ますぞ」と、『仮名手本忠臣蔵』七段目一力茶屋の段の大星由良之助と同じ姿で遊び始めます。やがて番頭は向こうから来た二人連れの一人を捕まえて、人違いだと断る人に「顔をみてやる」と目隠しを取ったところ、この世で一番会いたくない、自分の店の旦那と真正面から対面してしまいました。番頭はその場に平伏し、「長らくご無沙汰いたしまして」と挨拶をしますが、旦那はつらそうな顔で去って行きました。
 とうとう隠していた姿を見られたと、酔いも醒めて店に戻った番頭は一晩中寝られません。とろとろとすると、これまで叱りつけていた店の者が出世して、自分が落ちぶれている夢を見ます。この頃の大きな商家というのは、主人は店に出ずに、切り盛りをすべて番頭に任せて帳面の点検だけをしているのが常で、実直に番頭を勤め上げると、まとまった金を与えられて「暖簾分け」をしてもらい、ようやく真の一家の主になるというのが順でしたが、番頭は遊びの姿を見られたために、ここまでの辛抱がすべて無になってしまったと、悔やんでも悔やみきれません。
 翌朝、旦那は番頭を呼び、昨日のことを話します。番頭は、昨日はお得意に誘われてと言い訳をしますが、旦那は、見れば判るけれど、誘いということにしておきましょう、ただし、お客様と遊ぶとき、先方が五十両出せばこちらは百両、先方が百両出せばこちらは二百両と出すようにしなさい、そうでないと、いざという時に商いの切っ先が鈍るからしっかりやおやりと、知恵を授けます。
 昨夜はこれまで見たこともなかった帳面を見て、全く落ちが無いのを確かめ、番頭が奉公に来た頃の思い出を女房と語り合ったと話します。昨日の遊びは番頭自身の才覚でやったこと、立派だ、来年の秋には暖簾分けをするからそれまで辛抱しておくれ、ただし、もう少し店の者に思いやりを持ってほしいと、南天竺にあるという栴檀の木と南縁草のたとえを引きます。立派な栴檀の木の下に汚い南縁草が生えているので、ある人がこれを刈ってしまったところ、栴檀が弱ってしまった、これは汚い南縁草が栴檀にとって良い肥やしになり、南縁草は栴檀から露を下ろしてもらって共に栄えているのだ、この店では私が栴檀、お前が南縁草、店に出ればお前が栴檀、店の者が南縁草、持ちつ持たれつなのだからね、と優しく諭します。ここに人を使う秘訣が語られています。
 この栴檀と南縁草の話はどこから来たのか、出典が判りませんが、現実の生物世界ですと、動物である珊瑚虫と植物である褐虫藻(かっちゅうそう)との関係に似ています。褐虫藻は珊瑚の中に共生して光合成を行い、栄養分を珊瑚に供給します。この藻がいなくなると、珊瑚は白化し、死滅してしまうのです。
 咄に戻って、旦那は最後に、「毎日顔を合わせているのに、ご無沙汰いたしまして、というのはどういう訳だい」と訊きます。「はい、堅い堅いと思われていた番頭の姿が見つかりまして、これが百年目と思いました」。

   花見 その3                (花見の仇討ち・高田の馬場)
 江戸っ子は、人目を引くことを考える面がありました。改革という取り締まりがあったため、時代によっては外から見えない部分に凝ることもありました。着物ですと、羽織の裏、長襦袢を手書きにしたり別誂えで染めたりもしました。個人でだけでなく、友人と語らって人混みで茶番という即興劇をするなど、いつも人があっというようなことを考えます。まんまとかつがれた場合は、怒ってはいけません。「よッ、ご趣向(江戸訛りで、ごしこう)」と褒めるのです
 江戸の十八大通という、金もあり、暇もあるという通人の頂点にあたる札差や豪商がいました。いつも変わったことがやりたくて、皆で相談し、刀を右に差して歩きました。前から武士がやってきて、「見よ、いくら太平の世とは申せ、刀を逆に差しておる、む、次の者も逆だ、う、次の者も、してみると拙者が間違っているのか」と、こそこそと右に差し直したという咄のマクラがあります。
人目を惹く趣向で茶番をやろうと考えた四人組がいました。所は飛鳥山、江戸の郊外としてやや遠出で、解放感のある土地で、こういうお出掛けを当時は「野掛け」と言っていました。折角なら凝ったものにしようと考えた筋書きが仇討ちでした。普段芝居で見知っている仇討ちの筋書きを適当に真似てやってしまおうという計画です。役割は敵を討つ巡礼兄弟、敵役、留め男の六部と割り振って、まずは台詞を口立てで始め、立ち稽古へと進んで、いよいよ出掛ける日になりました。
 敵役は飛鳥山で巡礼兄弟を待つつもりで朝早くから出掛けます。たばこを吸っては消し、吸っては消しを繰り返して、口の中がすっかりいがらっぽくなって、待ちくたびれていました。仇討ちをする巡礼兄弟役も遅れてはいけないと出掛けましたが、途中で立ち回りの稽古をしたところ、通りかかった二人連れの武士の一人にうっかり泥杖を当ててしまいました。青くなって土下座して謝ると、連れの武士が仕込み杖の鞘走ったのを目敏く見つけ、仇討ちであろうと口をきいてくれ、二人はそれに話を合わせて、ようようのことで飛鳥山へと急ぎました。
 さて、この茶番の主役である留め男役は、外見はしっかり諸国巡礼の六部の拵えをして、笈には三味線と酒を用意して家を出たところ、間が悪くも叔父さんにばったり遇ってしまいました。叔父さんは、この男が廻国の姿をしているのを見て、てっきり悪いことをしたのだと思い込みました。この叔父さんは頑固で耳が遠くので、「どこへ行くんだ」という問いに、「花見の趣向(しこう)だよ」と答えたのを、「相模から四国」と聞き違えて、袖をつかんで放そうとしません。それでは、叔父さんの家へ行って、叔母さんに訳を話してわかってもらおうと思って、叔父さんの家まで行くと、叔母さんはあいにく出掛けて留守でした。それでは、叔父さんに酒を飲ませて、酔ったところで出掛けようとしましたが、叔父さんの方が酒が強く、留め男はここで酔っ払って寝込んでしまいました。
 飛鳥山では、待ちくたびれた敵役の所へ、巡礼二人が揃って膝に泥を付けて走って来ました。膝の泥を不思議に重いながらも打ち合わせ通りに仇討ちの茶番を始めました。周りの者が騒いだところから飛鳥山中が沸騰して、黒山の人だかりになりました。手順通りに刀を合わせていましたが、留め男が出てきません。だんだん疲れて小声で相談しながら立ち回りをしていれば、見物から「相談するな」の野次まで飛んできます。そこへようやく「助太刀だ」の声が聞こえました。やれ嬉しやと三人がそちらを見ると、最前泥杖を当てた武士が寄ってきます。もういけないと、三人が逃げ出すと、武士が、「ああ、これこれ、どちらへ参る。わしが見るところ勝負は五分だ」「勝負は五分でも、肝心の六部が参りません」。
 花の山の名作茶番は、かくして迷作になってしまいました。この話は、滝亭鯉丈(たきていりじょう)の作『花暦八笑人』が原作です。『八笑人』には四季の失敗話がありますが、落語になっているのは、春だけです。
 この咄、舞台を飛鳥山ではなく上野にして、巡礼が武士に泥杖を当てるのを御成街道とすることがありますが、上野の山は前に述べた通り、騒いではいけませんので、成り立ちません。「何事ぞ花見る人の長刀」、無粋はいけません。こういう解説も無粋ですね。
 季節を特定できない人出の中の仇討ちの咄があります。浅草寺の境内で蝦蟇の油売りの姉弟が、薬を買いに来た老武士がその古傷から親の敵と知れ、その場で仇討ちをしようとしますが、寺の境内でもあり、武士も公務を抱えていることから後日、時刻を約して高田の馬場での仇討ちと決まりました。この事件は江戸中の大評判になり、当日、高田の馬場の茶店は大繁盛、ところが時刻になっても姉弟は姿を見せません。茶店で待ちくたびれていると、討たれるはずの老武士が隅で徳利を並べて飲んでいます。「あれ、あなたは討たれるはずじゃないんですか」と訊くと、あの姉弟は老武士の子で、今日は家で洗濯をしているとのこと、「いったいあなたは何者で」「わしは仇討ち屋だ、こうして人を集めて茶店から売り上げの二割を貰って安楽に暮らしておる」ということで、こちらは一歩進んで仇討ちを職業にしていた咄です。

   花見 その4                        (長屋の花見
 こちらは舞台の土地は自由にされています。どこでもいいです。貧しい長屋の連中が大家に呼ばれて、てっきり店賃の催促かと恐慌をきたすところから始まります。じいさんの代に一か月だけ入れたという者、「店賃とは何だ」「大家さんのところのお金」「まだ貰ってねえ」という店賃を知らない者などがいる長屋で、店賃の催促ではなく、大家の発案で花見に出掛けることになりました。もともと予算などないので、酒は番茶を薄めたもの、かまぼこは大根の漬け物、卵焼きが沢庵、毛氈は筵という代用品揃いで花見に出掛けます。どうせなら山の下にして、卵の転げ落ちるのを待とうとか、施しが受けられるように一列に並んでと口の減らない連中、座が決まって、酒盛りならぬ「お茶か盛り」を始めます。「甘茶でかっぽれ」と言えば「番茶でさっぱり」と混ぜっ返しがあり、句では、大正三年に亡くなった三代目蝶花楼馬楽が作った「長屋中歯をくいしばる花見かな」という傑作が生まれました。「大家さん、近々この長屋に良いことがありますよ」「どうしてだい」「酒柱が立ってます」、「もう寄った」「どんな気持ちだ」「井戸に落っこった時とおんなじだ」という落ちがあります。最近はお茶を淹れることが減り、酒柱のもとになった茶柱が通用しないかも知れません。
 この咄、舞台を特定しないのは、もとが大阪の咄だからでしょうか。東京の咄では大家の発案で男だけが出掛けますが、大阪では雨が降って仕事にあぶれた長屋の連中が、花見に行くなら、ついでに退屈している女房連中も一緒にということになります。一行の出で立ちは、裸同然、体に墨を塗った者もあり、女房たちも、上はともかく、腰巻は「水潜らず」のまだ一度も洗濯をしたことがない「新品」かと思えば、一枚きりなので洗うことができない大変な「古物」を堂々としています。中には腰巻がなくて風呂敷を代用している剛の者までいます。飲食物はそれぞれ持ち寄りということにして、酒はもちろんお茶けで、各家のお茶の特選ブレンド品となり、食べ物はかまぼこならぬ「かまぞこ(釜底)」という焦げご飯や、おかずとして常用している「はさめず」という箸で挟めないところから名付けられた醤油などが集まりました。
 一行は、大阪の花見の名所の桜の宮へかも知れませんが、とにかく繰り出して、風下には座りたくない女房たちの腰巻を幔幕代わりとして張り回し、宴が始まりました。周りを見ると本物の酒を飲んで盛り上がっているので、だんだんに飲みたくなってきます。必要は発明の母と申しますが、ここで知恵を働かせる者が出てきます。申し合わせの喧嘩をして、人が散った隙に酒を持ってきてしまおうという計画です。手順を決めて喧嘩を始めましたが、打ち合わせ通りにやっていたところ、だんだん力が入って、できものの上を殴ったところから本物の喧嘩になり、周りは逃げてしまいます。そこで我に返って酒やご馳走を集めて、一行はめでたく酒盛りをすることが出来ました。これを見つけた太鼓持ちが、これで殴ってやろうと酒樽を手に文句を言いに行きますが、長屋の連中の方が強く、「喧嘩に来たのか、その酒樽は何だ」「へえ、これは……酒のお替わりを持ってまいりました」。なお、申し合わせての相対喧嘩の場面は、大阪の咄の「胴乱の幸助」で、喧嘩の仲裁が趣味の胴乱の幸助に一杯飲ませてもらおうと計画する場面にもあります。
 こんな貧乏長屋の大家にも、暮らしの足しになる収入があります。長屋のそれぞれの家には便所がなく、総後架(そうごうか)という共同便所がありました。ここに溜まる下肥え、つまり排泄物を近隣の農家が肥料として買いにくるので、これを収入源としていました。頭のいい大家は後架の数を増やして収益を上げました。大家との喧嘩の時に、江戸っ子としてはいささか威勢の悪い啖呵ですが、「今後、この長屋じゃ糞を垂れてやらねえ」というのがあります。大家は大家で、町内の掃除をするのですが、「初午」で書いた江戸の名物の犬の糞をわざと家の前に残しておくということで仕返しをすることもあり、「犬の糞で敵を取る」という、陰湿な手段で仕返しをするという意味の慣用句もあります。

   花見 その5                        (あたま山
 最近はなかなか聞かれなくなりましたが、咄家が寄席で使う言葉に「三ぼう」という言葉があります。どろぼう、つんぼう、しわんぼうの三つで、この三つはいくら悪口を言っても問題にならないとされていました。その理由はそれぞれあります。
 泥棒は、本人が俺は泥棒だ、俺のことを悪く言いやがって、と文句をつけにくることはないでしょうから、心配ないということで、泥棒を扱った咄は石川五右衛門のような大盗賊から、いたち小僧のへー助という小者まで、いろいろな泥棒の出る咄が、今でも盛んに高座に掛けられています。
 次のつんぼうは、放送では使えません。実際に耳の不自由な人、聞こえにくい人は寄席に来ないから問題にならないだろうということです。「おばあさん、前を通るのは横町の源兵衛さんじゃないかい」「いやだ、おじいさん、あれは横町の源兵衛さんですよ」「そうか、私ゃまた、横町の源兵衛さんかと思った」という少しほほえましい老夫婦のやりとりも封印されてしまいました。この件については、これ以上深入りしないことにします。咄の底に流れるのは、人間を温かい目で見ているということです。本人がどうしようもないものは、周りでもどうしようもないもの、それを攻撃するのは、人間として失格なのです。
 三つ目のしわんぼうは、別名けち、吝嗇(りんしょく)、我利我利亡者、赤螺屋、六日知らずなどと呼ばれ、わざわざ木戸銭を払ってまで咄を聞きに来るはずがないのでこれも取り上げても大丈夫です。並べ立てた言葉の中で、赤螺屋と呼ぶのは、赤螺貝という巻貝が、蓋をしっかりと閉じるところからの名です。また、六日知らずというのは、「一日、二日」と指を折って日を数えていって、「六日」になると、指を開かなければなりません。いったん握ったものは放したくないので、六日と指を開かないから、六日知らずと言います。五代目古今亭志ん生によれば、「とげが入っても、もったいないので抜かないで、帳面に付けておく、『何時何日(いついっか)、とげ入り』なんて、息をするのも一度に出しちゃあいけないてんで、少しずつ出す」ということになります。
 こんな人が桜ん坊を食べたら種を捨てるわけあがありません。もったいないのでそのまま飲み込んでしまったら、どうしたわけか頭の天辺に桜が生えてきました。せっかく生えたものを抜くのももったいないとほっておいたら、春になって見事な花が咲き、あたま山の花見と有名になって、人が出るは、酔っ払いが騒ぐはで、夜も眠れなくなってしまいました。しかたなく人を頼んで根から抜いたら、大きな穴になりました。やがて外出の時に雨が降って、いつの間にか水が溜まり、あたまが池と名が付きました。この池に鯉や鮒や鰻が増え、遊山船や釣り船が出て、春の時分と同じような騒ぎになりました。あんまりうるさいんで、もうこれまでと、自分の頭の池へ身を投げてしまいました。
 この咄が生まれるよりずっと古い時代の『徒然草』に似たような話が載っています。影響関係に言及した研究者の方がおいでか否か、寡聞にして存じませんので、僭越ながら並べておきます。
 良覚という短気な僧正がいました。この僧正のいる建物の傍らに大きな榎があるので、人々は「榎の僧正」と呼びました。僧正は、この名は気に入らないと、この木を伐らせました。その根が残っているので、今度は「きりくひ(切り株)の僧正」となりました。僧正はますます怒って、切り株を掘り捨てましたら、その跡が大きな堀になりましたので、人々は「堀池(ほりけ)の僧正」と呼んだと申します。
 こちらの僧正は、吝嗇ではありません。ただ、周りの評判を気にするというところです。ですから、他人の空似、原話だなどと騒ぐほどのことはないのでしょう。

   花見 その6                          (鶴満寺)
 鶴満寺(かくまんじ)は小町桜という名のしだれ桜で有名な寺で、見物客が多く詰めかけます。ただ静かに花を愛でているのならばまだ良いのですが、雪隠を貸せから始まって、酒の燗を付けてくれということまで図々しく求められるので、和尚は、これではせっかくの花の寺の雰囲気がぶちこわしだ、まるで茶屋になったみたいだからと怒り、寺男権助に、歌の一首、俳句の一句でも作ろうという風流心を持って訪れる客以外の花見客をすべて断るようにと言い渡して、用事をたしに出掛けてしまいました。
 しばらくは訪問客もなく、権助は安心していましたが、とうとう客がやって来ました。風流でなければ駄目(だみ)だという権助に、歌を詠むからと百文を握らせました。百文の小遣いに目がくらんだ権助は、歌を詠むならええだ、と寺に招き入れると、客は普通の花見客に変身してしまいます。これでは約束が違う、出て行ってくれとわめく権助に、一杯飲ませたところ、権助は酔ってくだを巻き始めました。客はさらに口止め料として一朱を握らせて帰って行きました。
 片付けが出来ないうちに和尚が帰って、この散らかしようは何だ、はたして風流な客なのか、どんな歌を詠んだと問い詰めます。権助は、「えーと、何と言ったかな、花の色はうつりにけりないたづらに」「そりゃあ、小野小町の歌だ」「何ですと」「百人一首の歌だと言ったんだ」「あれ、最初に百、それから一朱貰ったのが露見してしまった」。権助は小遣いにありつけたが、小言をくらい、後片付けにもずいぶん手間がかかったと言います。
 一朱は二百五十文で、一朱銀がありました。権助は三百五十文もらったわけです。倍率は違いますが、最初に百円玉を渡し、口止め料の時は小銭がなくなったから五百円玉を渡したと考えていただければ、後の金額に納得できるでしょう。
 鶴満寺は奈良に創建され、江戸時代に大阪市北区移った現存する寺です。寺の案内を見ても、小町桜は出てきません。寺の所在からからも判る通り、この咄は大阪から来たものです。大阪由来のもう一つの証拠として、江戸・東京では百人一首を「ひゃくにんしゅ」と言っていましたから、この言葉で権助が百(文)と一朱を貰ったと露見するはずがないということが挙げられます。こんなところからも咄の素性を知ることができます。
 花見の咄はこれくらいにしましょう。
 付け加えますが、最近も学校で小倉百人一首を覚えたり、遊んだりすることが多くなっていますが、江戸時代から教養として覚えることがあり、明治時代になると萬朝報(よろずちょうほう)という新聞社が主催して、競技かるたが盛んになります。さらに、競技だけでなく、かるた会が男女交際の場として活用され数多く開かれます。尾崎紅葉の『金色夜叉』では、鴫沢宮が富山唯継に見初められる場にかるた会という舞台が用意されています。かるたは人々の日常の中にありましたから、咄の中に突然百人一首が出てきても、聞き手は抵抗なく受け入れています。

   山歩き                            (愛宕山
 江戸の町は山が遠く、山に出掛けるのは、大山参り、富士参りというように信仰としてでした。そのことは夏の部で触れることにします。京都は山が近く、山に行楽に出掛けます。愛宕山(あたごやま)は、山遊びに最適な土地でありました。
 太鼓持ちの一八(いっぱち)と繁八をお供に京都へやって来た旦那が、明日は愛宕山に登るぞと言い出しました。春先のうららかな日の山歩きは気持ちが清々します。芸者連も全員一緒に登ると言います。
 翌日、愛宕山の麓まで来た一八は、こんな山は片足けんけんで登れると強がりを言います。さて登り始めると、地元の芸者衆は慣れたもので、軽く登っていきます。一八は最初のうち軽口を叩き、一首出来ましたと「早蕨のにぎりこぶしを振り上げて山の頬面春風ぞ吹く」と旦那に披露しましたが、旦那に、歌を盗んだなと一蹴されます。普段から節制不足の一八は、登るにつれて足が上がらなくなりました。繁八に助けられ、ようやく中途まで登り、頂上を極めたと喜びますが、そこは「試みの坂」、まだまだ上があります。
 そこに茶屋があり、昼食になります。下を見れば、桂川が見える良い景色です。向こうに土器(かわらけ)投げの的があり、旦那は見事な腕を見せます。一八もやってみましたが、全く駄目でした。こんな土器ではなどとまたも減らず口を叩く一八に、旦那は家から持ってきた小判を投げると言い出します。それはもったいない、無駄ですという一八に、お前たちを連れて遊んでいる方が無駄だとつれない返事をして、旦那は小判を全部投げ、小判は谷底へと落ちて行きました。
 あの小判はどうなると尋ねる一八に、拾った人のものだと言って去ろうとする旦那に、一八は谷底へ行って拾おうと決心して、茶店にあった傘を借りて、谷底へと飛ぼうとしましたが、さすがに決心が付きません。旦那は繁八に一八の背中を押させ、一八はとうとう谷底へと落ちて行きました。
 谷底に着いた一八は、やっとのことで小判を見つけ出しましたが、上へ上がる方法がありません。自分の着物を裂いてつないで縄にし、それを竹に絡めて、竹の反動で元の茶店の所へと戻りました。「偉い奴だ、生涯贔屓にしてやるぞ、金は」「あ、忘れてきた」。
 東京の咄では、旦那も一八も繁八もみな東京人ですが、上方の咄では、旦那が京都、一八と繁八は大阪と別になっていて、京都と大阪の意地の張り合いが遣り取りの底に流れます。小判を見せた旦那に、京都人は始末屋だから投げられないだろうと挑発する演者もいます。
 一八の盗んだ歌の通り、のどかに
春風の吹く山歩きです。山頂には愛宕神社があります。咄の題は「あたごやま」です。「あたごさん」とした本がありましたが、祇園さん、生玉さん(はん)というように、関西では神社仏閣をさん付けで呼ぶのを、東京の評論家と呼ばれる人が生かじりで山の名と誤解した結果と判断します。
 東京にも愛宕山があり、二十三区内で一番高い山です。江戸時代には、将軍の命で曲垣(まがき)平九郎が馬で石段を登って上にある梅の枝を取ってきたという出来事があり、講談の「寛永馬術」という読み物の一部になっています。また、NHKが最初に放送を始めた場所で、NHK放送博物館があります。