落語のひととせ 2 春の部2

   初天神                            初天神

 正月にはいろいろな初の付く行事がありますが、咄になっているのは初天神です。天神様、菅原道真公は二月二十五日が命日なので、毎月二十五日が天神様の縁日になっていて、年の初めの最初の縁日の一月二十五日を初天神と言います。亀戸の天神様では、木彫りの鷽(うそ)を交換し、去年の鷽を本物に替える「うそ替え」という行事があります。天神様には昔の学問の「読み、書き、算盤」のうち、書の上達を願ったものでしたが、今ではすべての学業、とりわけ受験の神様として、一、二月は特に賑わいます。
 道真公について寄り道をします。筑紫へ流されて「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」と詠み、その歌に感応した梅が跡を慕って筑紫へと飛んだという伝説があります。なお、飛んだ先は、太宰府天満宮ではありません。天満宮は道真公の墓所安楽寺の地に建てられたものですから、飛んだ先は観世音寺近くの配所です。とにかく、梅と道真公は切っても切れない関係です。先の歌、「春を忘るな」となっているのは、『拾遺和歌集』に採られた時の形です。ついでに、道真公御年十一歳のみぎりに初めて作られた詩の題材も梅の花なのです。書いておきましょう。
    月の夜に梅花を見る
  月の輝くは晴れたる雪の如し
  梅花は照れる星に似たり
  憐れぶべし 金鏡の転(かひろ)きて
  庭上に玉房の馨れることを
  [訳] 月の光は、晴れた日の雪のよう
     梅の花は輝く星に似ている
     いいなあ、輝く月がめぐり来て
     庭に梅の香りが漂ってくるなんて
さて、本題の初展示の戻りましょう。
 父親は、子供がついてくると縁日の露店であれこれ買えとうるさいので、一人で初天神にお詣りに行こうと思っていました。ところが、母親に子供と一緒に行くように言われて、世間一般の父親同様、断りきれずに子供を連れて出て来ました。露店がずらりと並んで並んでいます。飴屋が出ていて、子供に飴をねだられると、父親は指を舐めてはあれこれといじり回し、飴屋に文句を言われたあげくに買ってやります。「あーあ、おまえなんぞ連れて来るんじゃなかった」とぼやく父親です。
 父親は飴を歯に当てずにゆっくり味わえと注意して歩き出します。子供が飴を舐めながらおとなしく歩いていると、そこに水たまりがあり、気をつけろと地と親が注意したら、子供は「えーん、飴を落とちゃった」と泣きました。父親が探そうとすると、子供は、飴はお腹の中へ、つまりびっくりして飲んでしまったと言います。
 続いて、みたらし団子をねだられ、次には凧をねだられます。ずっと子供の言いなりになっていた父親でしたが、凧を手にした途端、父親は子供に返り、いつの間にか凧揚げに熱中して、親子の立場が逆転、子供に「おっつぁんなんぞ連れて来るんじゃなかった」とぼやかれてしまいます。
 この咄は、どこの天神社かわかりませんが、本殿までお詣りする場面はありません。ですから、凧揚げの出来る時間の縁日の露店であれば、初天神と限定しなくても良い咄でもあります。しかし、誰もそんな余計な事は考えず、「初天神」という行事を大切にして、正月らしい清新な雰囲気を味わわせながら、親子の情愛を温かく伝えてくれています。
 この正月の凧揚げですが、歌川広重の「名所江戸百景」に「山下町日比谷外さくら田」に羽根突きと一緒に描かれています。なお、凧揚げは、広重の保栄堂版「東海道五十三次」の掛川宿にも描かれています。浜松周辺では、初夏に凧揚げが行われています。この風習を調べもしないで、本に、掛川の絵に凧を描いたのはおかしいと書いた美術館の元館長がいました。他山の石といたします。

   初午                      (鹿政談のマクラ、明烏

 江戸の名物を六代目三遊亭圓生の演に従うと、「武士、鰹、大名小路、生鰯、火消し(消防)、紫(江戸紫染め)、茶店、錦絵」と、短歌の形になっています。これには続きがあって、「火事に喧嘩に中っ腹(ちゅうっぱら・心の中でむかつくこと)、伊勢屋、稲荷に犬の糞(くそ)」です。それぞれを丁寧に調べると江戸の暮らしの一端が見えてきます。圓生はついでに、各地の名物を話してくれました。京都では、「水、壬生菜、女、染め物、針、扇、お寺、豆腐に人形、焼き物」、大坂では、「舟と橋、お城、惣嫁(そうか)に酒、蕪(かぶら)、石屋、揚屋(あげや)に問屋、植木屋」、奈良では「大仏に、鹿の巻筆、奈良晒、春日灯籠、町の早起き」となります。
 これが定番かというと、七代目橘家圓太郎では、江戸が「武士、鰹、大名小路、広小路、茶店、紫、火消し、錦絵、火事に喧嘩に中っ腹、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と少し違います。「大名小路広小路」の続き具合は、『寿限無』の名に出てくる「やぶら小路ぶら小路」との混同を思わせます。次は京都で、「壬生水菜、女、羽二重、三栖屋針(みすやばり)、寺に織屋に人形、焼き物」とずいぶん違います。大坂は、「船と橋、お城、惣嫁に酒、蕪、石屋、揚屋に問屋、植木屋」と完全一致です。奈良は、「大仏に、鹿の巻筆、霰酒、晒、奈良漬、奈良茶粥、春日灯籠、町の早起き」と中身が増えています。この違いは口伝えによる異同で、間違った物が入っていなければ、詮索はいらないでしょう。
 さて、本題に戻りまして、どちらの演者も一致する江戸の名物に、お稲荷さんと親しく呼ばれる「稲荷」があります。最近では京都の伏見稲荷に多くの参詣者があるということですが、江戸の町では、一町内に一つの祠があり、通りすがりの人が、ひょいとお辞儀をしていったり、商売繁盛を祈ったりしました。
 明和三美人の一人で、鈴木春信の錦絵に描かれた「笠森おせん」は、谷中の笠森稲荷の門前の水茶屋で働いていました。このおせんの茶屋は、「鼻の圓遊」として著名な三代目三遊亭圓遊が人気を博した珍芸すててこの「向こう横町のお稲荷さんへ、一銭あげて、ざっと拝んでおせんの茶屋へ、腰を掛けたら渋茶を出して……」という歌詞にも出てくるものです。ここでも、お稲荷さんが身近であったことがわかります。
 歌舞伎の舞台にも、赤い鳥居を舞台に半分だけ出してお稲荷さんの景とします。この鳥居の残り半分はどうなっているのかと調べたら、稲荷寿司屋の看板になっていたという言葉がありましたが、今ではそんな看板も見られなくなり、この言葉はいつの間にか消えてしまいました。
 だいぶ寄り道をしてしまいましたが、お稲荷さんはこれくらい人々の生活の中に浸透していました。二月の最初の午の日を初午として、お稲荷さんの縁日です。邸内にお稲荷さんを祀っている家でも、この日ばかりは出入りが出来るように開放します。幟を新しくして、太鼓を叩いたり、赤飯をふるまったりしました。そして、路地には言葉遊びをふんだんに盛り込んだ文字をと絵を描いた地口行灯を掛け並べます。今も昔も感性豊かな名人がいました。この地口という物、時代を映しますので、古くなってしまうこともありますが、昔の風物を知ることもできますので、捨てた物ではありません。例えば、お地蔵さんと電話機の絵があって「地蔵電話」と書いてあり、これは交換手を通さない「自働電話」という洒落ですが、現代のスマホ世代に理解させるにはどれくらいの時間がかるでしょう。

 田所町の地主の息子時次郎は大変な堅物で、初午の地口行灯を見て、家に帰ってきて、「鼻高きがゆゑにとんび烏」という文句は「山高きがゆゑに尊からず」の間違いだと文句を言います。 せっかくの語呂合わせの洒落なのに、全く判っていません。この初午祭りは長屋の差配人の所のもので、本来なら祝儀を持って行くべきところを、時次郎は手ぶらで行き、煮染めの味がいいということで、赤飯を三杯もお替わりしてしまう世間知らずです。このままでは自分の跡を継がせるのは心配、洒落や遊びを学ばせようと、父親は、町内の「札付き」の源兵衛と多助に頼んで、この初午の日に、浅草の観音様の裏手にある、たいそうはやるお稲荷さんへとお籠もりに連れて行ってもらいます。「札付き」といっても、現代の反社会勢力というわけではなく、いささか粋がった「ワル」というところで、風俗通といったところです。
 さて、観音様の裏手のお稲荷さんと称する吉原へと向かった一行、まずは軽く「中継ぎ」の一杯をやって、引手茶屋へと行きます。ここで目的地が吉原と知られてはいけないので、茶屋を「お稲荷さんのお巫女の家」と称し、女将を「お巫女頭」にして、吉原の店に上がります。いくらお稲荷さんだと言っても、廊下を立兵庫に結った髪で、パタリパタリと厚い草履で歩いていれば、ここがお稲荷さんではなく、吉原だと判ります。息子時次郎は真っ青になって、「女郎を買うと、病気になって瘡(かさ)をかく、帰してください」と叫び、泣き出します。帰りたいというのをなんとか納めて、時次郎は吉原に一夜を過ごしました。
 八代目桂文楽はここで一調子張り上げて、「女郎(じょうろ)買い振られた奴が起こし番、うまいことを言ったもので、朝早くから人の部屋をがたがた開けたりしている方に成績の良かった方はいらっしゃらないようで」と翌朝への場面転換をしましたが、時次郎の「瘡をかく」発言のせいで、源兵衛と多助はこっぴどく振られてしまいました。
 さて、泣きの涙の時次郎は帰ったのかと思ったら、「オウ、駄々っ子収まってるとよ」「そんなはずはないよ」と、様子を見に来た二人の前で時次郎は、「まことに結構なお籠もりで」とヌケヌケと言い放ちました。というのも、この時次郎の相手をしたのが、浦里という花魁で、「ああいう初心な方に出て見たい」という花魁からのお見立て、今日で言えば逆指名ということで至れり尽くせりのことがあったのでしょうが、その夜のことは咄にはありません。「世の中に金と女は敵(かたき)なり、どうぞ敵に巡り会いたい」と言いますが、普通にはすてきな巡り会いはないようですが、時次郎は幸運に恵まれました。
 初午が、時次郎にとって、生涯忘れられない甘い経験の日になったというお話です。このお稲荷さん、昭和三十三年(一九五八年)三月三十一日をもって廃絶になったためにこのような「お籠もり」という制度は無くなってしまいました。
 はかのお稲荷さんは今日まで存続し、王子稲荷では、初午の日に凧市があり、参道には凧を売る店が並び、社務所では火伏せ、つまり防火のお守りの凧を頒布しています。

   梅見                           (やかんなめ)
 梅は、諸々の花に先駆けて咲くと言う意味で、花の兄と言われます。春先に凛と咲き、馥郁たる香を漂わせる梅の花は、冬が終わり生命力に溢れる春が始まることを実感させてくれます。ここに、兄と言えば弟あり、花の弟は菊のことです。ついでに花の王と言えば牡丹です。「鏡獅子」や「連獅子」というような獅子が出てくる石橋(しゃっきょう)ものと呼ばれる舞踊では、牡丹に獅子が戯れる場面があります。国土の広い中国では牡丹に獅子で、国土の狭い日本では牡丹に猫が寝ていることにして、日光東照宮の「眠り猫」が作られたのだ、と言われるとなんとなく納得してしまいます。花の王については、中国では牡丹、日本では桜であると記述している江戸時代の辞書もあります。
 さて、話を梅に戻して、梅は古来愛された花で、和歌にも多く詠まれています。『小倉百人一首』でよく知られている紀貫之の「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」の歌は、奈良の長谷寺の梅を詠んだものです。江戸時代にも梅は愛され、歌川広重描く浮世絵の「名所江戸百景」の連作の中に、亀戸と蒲田の梅屋敷の二枚の絵が入っています。桜の下の酒の入る花見とは違い、梅見は静かに梅林を散策する風情があります。
 ある大店のお神さんが、お供を連れて梅見に出ました。このお神さんは、突然震えがきて、訳がわからなくなるという癪の持病がありました。発作の時は、まむし指という形の指を持った人に強く押してもらう、また呪いとして、男の下帯で縛ると良いという民間療法がありました。このお神さんは、そのような方法では一向に治りません。唯一銅でできたやかんが特効薬で、やかんを舐めさせるとけろりと治るのです。
 ある日、下女二人を連れてお神さんは梅見に出掛けました。梅林で楽しんでいると、突然目の前に現れた蛇に驚き、癪を起こしました。梅見の場にやかんを持ってきているわけもなく、あたりを見回してもやかんが転がっていることもありません。苦しむお神さんを前に下女二人は途方に暮れました。そこへ、みごとに禿げ上がった武士が、一人の中間を供に梅見にやってきました。これぞ天の助け、下女は、命に替えてもと武士に頭を舐めさせてほしいと懸命に頼みます。武士は、頭を舐めさせろとは無礼な者、しかし身を捨てても主の命を助けたいというのはまことに忠義な者、その心は無下に出来ぬと、頭を舐めることを許します。お神さんは差し出された頭にしがみついて夢中になって舐め、ようやく正気づきました。
 後日改めてお礼をというお神さんに、武士は、以後は無縁、頭を舐めさせたことは口外無用であると堅く口止めをして去って行きます。供の下男は笑いが止まりません。
 お神さんが感謝の念でやかん頭を見送れば、頭にくっきりと歯形が付いています。「あれ、おつむりに傷が」「心配するな、洩るほどではござらん」。春風の中、悠然と立ち去るやかん頭が目に浮かびます。
 なお、梅の一名を好文木と申します。中国、晋の武帝の時、武帝が学問に励んでいると梅の花が咲き、怠っていると梅がしおれたという話があったと、『十訓抄』に記されています。天神様の菅原道真公も梅がお好きであったということは、「初天神」の項に述べました。
 梅の話をもう一つ、為永春水人情本『春色恵の花』には、十七歳の乙女が口づけをかわす時に、お茶で口をすすいで、梅の蕾を含む場面があります。梅が口中清涼剤か、口臭防止剤になったという美しい場面ですが、実際にどんな効果があるのか、試したことがありません。

   雛祭り                          (道具屋、雛鍔
 三月三日は五節句の一つで、桃の節句、雛祭りです。お雛様は芭蕉の『おくの細道』に「草の戸も住みかはる代ぞ雛の家」とあり、家の中にお雛様が飾られた姿が思われます。また、あちこちの町や、美術館・博物館で、それぞれの伝来のお雛様を飾ることが行われていますが、咄の中には、そのようなお雛様を飾った風情は見当たりません。
 飾ると言えば、お雛様の左右どちらに男雛を飾るのかが時々話題になります。明治以前は、向かって右が男雛で、由緒ある美術館や旧家ではこの飾り方を踏襲しています。なぜそうなるのかというと、日本では左が位が高いとされているからです。左大臣が右大臣より位が高く、和服の前の合わせ方を見れば左袖側が上になっています。西欧では左右逆で、明治になって、近代化を目指す政府や皇室がそれに倣うようになり、やがて御真影が日本国中に行き渡ると、世間一般も男雛が向かって左側に位置するように飾るようになりました。と偉そうに書きましたが、江戸琳派の代表格の酒井抱一の「立雛図」で、男雛が左に描かれている作品があります。この左右どちらが上かという考え方はまことにめんどうで、公式な場での席次でも問題になり、また、「右に出る者がない」とか、「左遷」という言葉を考えると訳がわからなくなりますから、この辺にいたします。
 さて、ぶらぶらと日を送っている与太郎に叔父さんが、叔父さんの商売をやれと命じます。「叔父さんの商売は頭に『ど』が付くだろう」「よく知ってるな」「どろぼう!」「何を言ってるんだ、道具屋だ」ということで、与太郎は露天の道具屋をやることになりました。叔父さんからあてがわれた商品は、いわゆる「ゴミ」で、表紙しかない『唐詩選』や火事場で拾った焼きのいいのこぎり、足が二本しかなくて裏の塀ごと買わなくてはいけない燭台などが出てきます。そんな店だからこそ掘り出し物はないかと見に来る客がいます。毛抜きを手に与太郎と話をして、髭をすっかり抜いていなくなるという、符牒で「小便をする」ひやかし客がいました。そこで、股引を見に来た客には与太郎があらかじめ「小便はできませんよ」と釘を刺したところから、「小便できない股引なんかいらねえ」と怒って帰られてしまいます。そこへ、短刀を見に来た客が、中身はどうなのかと抜こうとしたが抜けません。「ちょっと力を貸せ」「へえ」と両方から引っ張って抜こうとします。「抜けないな」「抜けません」「どうしてだ」「木刀ですから」「馬鹿野郎、どうして木刀を抜こうとしたんだ」「抜けば何が出てくるかと思って」「他になにか抜ける物はないか」「お雛様の首が抜けます」とお雛様が出てきます。売り物の話なので、三月の雛の月のことではないのが残念です。ここでは一対揃っていないようです。
 これも三月のことではない話で恐縮です。植木屋の熊さんが、仕事先のお屋敷から肩を落として帰ってきました。おかみさんが訳を聞くと、お屋敷の若様の振る舞いを見てがっかりしたというのです。その若様は熊さんの子と同い年の八歳で、お屋敷の庭を遊び歩いていて銭を拾い、「かような物を拾った、これは何であろう」と若様付きの家来に尋ね、「これは丸くて四角い穴が開き、波の模様が彫ってある、お雛様の刀の鍔であろう」と言い、若様はその銭をぽーんと放ってまた遊びにいってしまったというのです。熊さんはうちの子はすぐ小遣いをほしがるだけだとがっかりしています。
 そんな時に、出入り先の大店のご隠居が打ち合わせにやってきます。すると、子供が「こんなもの拾った、こんなもの拾った」と言って帰ってきます。「丸くて四角い穴が開いてる、これ何だろう、あたいの考えでは、お雛様の刀の鍔かなあ」、これを聞いたご隠居が「驚いた、お前さんの所では銭を知らないのかい、お小遣いを上げても仕方ないから、今度ご褒美にお手習い道具一式あげよう」と褒めます。熊さんが「早く捨てちまいな」「いやだい、これで焼き芋買うんだい」。お雛様が鍔を通してかすかに登場いたしました。
 似たような銭を知らない話があります。銭は穴に緡(さし)というものを通して まとめていました。これは長くなると、妙な形に見えます。吉原のある大店で、緡に通した銭が落ちていました。これを見た花魁が、「あれ、あそこにこわい虫がいる」と若い衆を呼んで片付けてもらいました。銭の片付け先は若い衆の懐の中ということはもちろんです。この事件から、「あの花魁は銭を知らない」と大評判になり、花魁は一躍売れっ子になりました。その話を聞きつけた小さな店の花魁が、自分も評判になろうと、わざと銭を落としておいて、「ちょっと芳どん、あそこに怖い虫がいるよ」「虫なんかいませんよ」「いるんだよ、あそこに緡に通して三百五十」と金額を言ってしまったという失敗談です。
 ちょっと寄り道です。二つの話で「大店」という語を使いました。前のご隠居の店は、「おおだな」と読んで、おおきな商店を指します。後の吉原の話は「おおみせ」で、大籬(おおまがき)とも言い、吉原で格式の高い店を言います。「おおみせ」は商店のことも言いますが、吉原と聞き間違えるといけないので、あえて使い分けています。同様に使い分けられている「大」の字を使う言葉に、「大門」があります。「芝で生まれて神田で育ち、今じゃめ組の纏持ち」という言葉で有名な芝にある神明様の大門は「だいもん」で、都営地下鉄の駅名になっていますが、初めて東京を訪れた方は口に出すとき要注意でしょう。初午の項で出てきた明烏の時次郎がお稲荷様の鳥居と間違えた吉原の大門は「おおもん」と言って、使い分けています。

   彼岸                      (天王寺参り、菜刀息子)
 春分の日秋分の日を中日として、それぞれの前後三日ずつの日が春の彼岸と秋の彼岸です。彼岸には墓参をする風習があります。大坂では天王寺へとお参りに出掛けて、坊さんに亡くなった人の戒名を経木に書いて貰って、引導鐘を撞いて回向をします。すると、この鐘の音がはるか十万億土の彼岸にいる亡者に聞こえ、供養になると言われています。彼岸の天王寺は多くの人で賑わい、その人出を目当てにした露店がずらりと並びます。
 ここに、可愛がっていた犬を殴り殺された男が、彼岸だから故人の追善をしなさいと言われ、犬の冥福を祈るために、「牛に引かれて善光寺参りならぬ、犬に引かれて天王寺参りや」という程度の気持ちで、物知りに連れられて天王寺へと向かいました。
 天王寺は、聖徳太子の創建になり、浄瑠璃の『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』に「仏法最初の天王寺」と語られています。今は海から遠い位置にありますが、昔は海に近く、彼岸の中日には、西門に立つ石の鳥居の正面に夕日が沈むのが拝めました。この石の鳥居は、吉野の銅(かね)の鳥居、安芸の宮島の木の鳥居と並ぶ日本三鳥居の一つです。この石の鳥居には、箕の形の中に弘法大師が書いたという「釈迦如来、転法輪所、当極楽土、東門中心」との文字がある額が掲げられています。室戸台風、太平洋戦争の時の空襲により被害を受けましたが、金堂や五重塔などの堂宇は立派に再建されて王寺を忍ぶことが出来ます。
 さて、天王寺に着くと、賑やかな露店の物売りの声の中、物知りは境内を克明に案内をしてくれます。この案内の中には、今日ではもう見られなくなったものがあって、貴重な記録です。雑踏の中、二人は引導鐘のところまでやってきます。改めて引導鐘が十万億土まで聞こえると説明された男、「なんのかんのと山コ坊主が」と罰当たりなことを言います。さて坊さんに戒名を書いて貰う段になり、犬の命日はすらすらと出て、なんぼ書いてもらっても一緒ということで、ついでのように父親の戒名も頼みますが、命日がなかなか思い出せません。ようやっと鐘を撞いてもらい、自分で撞くと、鐘の音が「クヮン」、ちょうど犬が殴られた最期の時の声と同じです。男は、ああ、無慈悲に叩いてはいかんなと泣いたというお咄、底流は天王寺の案内になっています。
 もう一つの咄を紹介します。天王寺には、いつも病者、貧者など、社会から脱落せざるを得なかった様々な人々が身を寄せ合っていました。仏の救いに与れるようにとの思いもあり、いつも人が集まるので、何らかの施しを得ることがあったからです。また、裕福な有徳人が、施行と称して、粥に銭を添えて多くの人に施すこともありました。
 厳しい親を持つ息子、親が裁ち包丁の長いのを誂えよというのを聞き間違えて、「菜刀(ながたん)」つまり菜切り庖丁を頼んでしまいました。息子は、父親に激しく叱られて、家出をしてしまいます。一年が過ぎ、もはや息子はこの世にいないのだろうと両親は悲しんで、彼岸に天王寺参りをすればあの子の菩提を弔うことにもなると、夫婦で出掛けて行きます。雑踏の中に、「長々患いまして難渋をいたしておちます」という物乞いが大勢います。さんざん人混みに揉まれながら進んで行く二人の前に、家出した息子がいました。大勢の人の中で親子の名乗りは出来ない、物乞いの口上を言えば恵むことが出来ると、口上を言わせると、息子は間抜けな声で、「菜刀(ながたん)誂え(長々患い)まして、難渋いたしております」。
 病を得て悲惨な運命に陥るという「信徳丸」の話が能、説経、浄瑠璃といろいろあります。いずれも天王寺と深いつながりがあります。この息子の姿もそれらの一連の作品の延長上にあると思います。