落語のひととせ 1 口上 ならびに春の部1

     口 上

 落語とは、江戸時代に成立したすばらしい口承文芸です。語る、ではなく話す芸です。難しい言葉で言うと、舌耕文芸と申します。
 ところで、この落語という語はどうやって生まれたのでしょう。そもそも成立当初は「はなし」と呼ばれました。落語の世界では、この「はなし」に、「話」ではなく、「噺」や「咄」という字を当てますが、今後は「咄」に統一することにします。さて、この「咄」には、まとめの部分があり、その部分を、咄全体を落ち着かせるものとして「落ち」と呼びます。咄が多く作られるようになると、その落ちの善し悪しが咄の価値を表すとして、落ちが重視されるようになりました。江戸時代に出版された咄の本の序文に「それ咄は一が落ち、二が弁舌、三が仕方(しかた、仕草のことです)」とあるのがそその証拠です。当初は短い咄が多かったのですが、だんだんにいろいろな形ができ、芝居の舞台を彷彿とさせる咄(芝居咄)や長い咄(長咄)、お化けの出る咄(怪談咄)などが生まれます。そこで、落ちのある咄を他の種類の咄と区別するために、落し咄と呼びました。この落し話という語が明治期の漢語流行の中で、「落話(らくわ)」ではなく「落語」と変えられました。これが、落語という語の起源だということになっています。
 落語には、江戸時代以来の人々の生活が伝えられています。きちんと一席聞けば貴重な資料にもなるはずなのに、最近、まともな形の落語が放送される機会が少なくなってしまっています。その理由はいくつか考えられます。第一には、咄をきちんと一席通すと、三十分ほどかかってしまうという時間的制約です。放送での対処法としては、漫談のように短く話させ、適当なところで「冗談言っちゃいけねえ」と切らせます。これを咄家は自嘲的に「冗談落ち」と呼んでいます。第二に、落語は一人の演者が座って話す芸なので、画面の切り替えが出来ないという画像的制約があります。これを解消するために、笑いが起こると客席を映して場面転換をはかり、ついでに時間調整をしてしまうことがあります。いったい、どこの世界に、落語を聞いて笑いながら、周りの一緒に笑っている人を見て喜ぶ人間がいるのかと、不思議でなりません。第三に、放送禁止用語という自主規制があります。落語を話す側に根深い差別意識などなく、咄の流れ上、また、古来伝えられた通りにその言葉を使うだけのことなのです。ここは歴史的事実として、こういう言い方があったのだということを残しておきたいのです。咄家たちは心優しく、差別用語を使わないまでも、身体的障害については、十分に気を遣ってくれています。たとえば、目の不自由な客が来ると、楽屋の黒板に「目の悪いお客様がいます」と書き、盲人の出る咄を避けるようにしているのです。
 そこで、すっかり遠くなってしまった落語を題材にして、四季の移り変わりや、心優しい人々の姿についてまとめて、私の落語人生を振り返ります。ただし、咄は、長い時を通して、多くの咄家によって練り上げられたものなので、時代考証には不向きであり、これから過ごす四季は、同じ時代のことではなく落語国の時間の中の四季であることをまずお断りしておきます。落語の引用に当たっては、現代の活きた姿が良いのかもしれませんが、味わい深い咄を聞かせてくれた師匠たちの速記本や耳の底の記憶に頼ることにします。なお、速記は、明治時代、三遊亭圓朝の咄を記録したのが我が国の嚆矢で、この速記を読んだ二葉亭四迷が言文一致体を生んだのは、よく知られているところです。これから、先程述べた差別用語といわれる語が、咄の流れの上の必要から出るかもしませんが、極力不快にならないように気を付けて、まずは春、正月から始めます。

 

   元日                            (かつぎや)

 一年をどこから始めるかといえば、たいてい元日ですが、節分の翌日の立春から始めることもできます。明治新政府が明治五年十二月に、表向き海外と合わせることにして、実は役人や軍人の給与を支払わない苦肉の策として採用した太陽暦では元日と立春の間が遠くなりましたが、昔の暦では、どちらが先に来るかというのが文化人の興味の対象になっていました。十世紀初め成立の勅撰和歌集古今和歌集』の巻頭を「年(とし)のうちに春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はん今年とやいはん(元日の前に立春が来ちまったよ、残りの日を去年と言おうか、今年と言おうか)」という歌が飾っています。ふざけた歌と言ってはなりません。勅撰和歌集というのは、天皇天皇を退位した上皇法皇の命で編纂された公式の権威ある和歌集で、各巻の最初(巻頭)と結び(巻軸)は特に優れた作が置かれる重要な場所なのですから、年内の立春は関心事であったことは間違いありません。
 早稲田大学に近い穴八幡では冬至の日に「一陽来復」のお札を出すので、善男善女で賑わいます。お日さまが精力を使い果たして一番疲れ切った時が冬至で、そこが体力回復の出発点になるとしているのですから、冬至の日が元日や立春より早い一年の始まりかも知れません。
 わかりきったことをもう一度つつき返してみましたが、ものが落語なのだから、あまり長いマクラは咄の邪魔、長口上(生兵法)は大怪我の元、本題に戻りましょう。 穏当に暦を昔の暦にして、正月から始めます。その朝早くから「わーい正月だ、正月だ。めでてえな」と騒いでいるのは、長屋住まいで年末に千両富に当たった八五郎でしょう。この男のことは冬の部で触れることにして、町の様子を見ましょう。さて、厄払いの言い立てに「一夜明ければ元朝(がんちょう)の、門(かど)に松竹(まつたけ)、注連(しめ)飾り」とある通りの風景で、すべてが新たな気持ちになります。
 めでたい正月、商家の大晦日は一年中の総決算で、家ごとに種々の行事があるので、一家はほとんど徹夜同然です。そこで主人が早くから皆を起こすというのが一般的な形で、「起きろ、起きろ」「やあ、眠たい、眠たい」というやりとりの後、まずは若水を汲むことから始まります。「これ権助や、お前はまだ来て間もないから知るまいが、おれの処では吉例でな、井戸神様へ橙を納めることになっている。その歌があるからよく覚えなさい。『新玉の年立ち返る朝(あした)より若やぎ水を汲みそめにけり、これはわざとお年玉』、こう言ってこれを入れて来なさい」「ヒェー……これは難しいことを言いつかったぞ。何とか言ったな、エーと、でんぐり返(けえ)ると言ったな、そうだ、新玉のか、新玉なんぞおもしろくねえだから、…目の玉のでんぐり返る朝より末期の水を汲みそめにけり、わざとお人魂でごぜえます」と、主人があまりに縁起をかつぐものだから、わざと悪く祝う奉公人が出てきます。なお、祝う時にわざと悪口を言うのは、歌舞伎の曾我の対面の時に、めでたく成人した十郎と五郎の曾我兄弟に次々と悪口を言いかける場面があり、一つの習慣でもありました。
 とにかく、まず若水を汲んで、手水を使う、そしてお屠蘇という段取りです。次いで雑煮を祝います。正月の祝い箸は両端が細くて中が太いもの、片側は神様が使うものだという言われですが、商人の解釈では、初めは細い身代でも、一生懸命働いて、だんだん太らせてゆき、太ったところをぐっと握って離さないようにするのだそうです。ところが、こういう教訓を垂れる主人に、太くなってもやがて細くなると小声で言うけしからん奉公人がいます。雑煮の餅の数だって、食い上げるとか食べ上げると言って、三が日の間数を増やして、めでたくします。雑煮を祝いますと、小僧が泣き出しました。餅に何か堅い物が入っていたというのです。この家では、例年餅の中に金を入れ、誰に当たるか、その年の福を占う習慣がありました。「これで金持ちになるぞ」「なあに、金の中から餅が出れば金持ちだが、餅の中から金だから、この家の身代持ちかねるだ」と権助は縁起の悪いことを言いいます。物が倒れても「倒れた」などと悪く言わないで、「めでたくなった」と言わなければなりません。こういう縁起担ぎの主人に神経を使い過ぎて、徳利が倒れそうになった時に、「どっこい、そうめでたくはさせんぞ」などと叫んでしまう者が出てしまいます。
 雑煮を祝ったあとは、長屋住まいの住人の中には、その年の吉方に当たる神社へと恵方参りに行く者もいますが、商家では、二日に小僧を供に年始回りをします。奉公人は暮れにもらった新しいお仕着せを着て、晴れやかな気分で出て行きます。大きな商家では、番頭が町内の頭を供にするところもあり、その姿は「月見」の項に紹介する「柳田格之進」という咄の中に描かれています。

   初夢                            (かつぎや)
 正月二日の夜は初夢です。良い初夢を見ようと、枕の下には宝船の絵を入れて寝ます。この日の昼間、宝船の絵を売る商人が「お宝、お宝」という売り声で町を歩き回る。この宝船の絵には「なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのをとのよきかな」という上から読んでも舌から読んでも同じ回文の歌が書かれています。この二日だけに使われる宝船の絵を売る商人を船屋(ふなや)と呼びます。
 せっかくの縁起物、どうせなら威勢の良い船屋から買いたいものです。縁起担ぎの旦那の店では、小僧が呼び込みました。旦那が判りきった値を聞きます。「船は一枚いくらだい」「一枚四(し)文で」「十枚では」「四十(しじゅう)文で」「百枚では」「四百(しひゃく)文で」「そうのべつしの字を言っちゃあ駄目だ」「何言ってやがんでぇ、去年は幸せが悪かったから、縁起直しに船でも売ろうってぇのに、けちを付けやがって、この家の軒で首をくくってやるから覚えていろ」というやり取りになって、船売りは怒って帰り、旦那は気を悪くします。だいたい、江戸っ子は四をしと発音したし、船は四文に決まっているのだから、何度も押して値段を聞く方が悪いのですが、そこは咄の世界、ご海容を願い上げます。縁起の悪いことを言われた旦那は青くなって「鶴亀、鶴亀」と繰り返します。最近は使われませんが、縁起の悪い言葉を聞いた時は、「鶴亀、鶴亀」と打ち消すのが言霊信仰でもあります。
 さて、店の中が険悪な空気になったので、気の利いた番頭は店の脇から出て、通りかかった船屋に知恵を付けます。旦那が尋ねます。「おい船屋さん、船は一枚いくらだい」「四(よ)文で」「十枚で」「四十(よじゅう)文で」「百枚では」「四百(よひゃく)文でございます」「気に入ったよ、船は何枚ある」「旦那の御寿命ほどで」「自分の寿命を人に買われちゃあいけない、全部買いましょう」と船屋さんは全部売り切ることができただけでなく、縁起のいい船屋さんだと一杯ご馳走にあずかります。

 そこへ娘が出てくるので、船屋は、「あちらがお嬢さん、弁天様で、旦那様がにこにこと大黒様、こちらのお店は七福神が揃ってますな」「それじゃ二福じゃあないか」「いえ、御当家が呉服(五福)屋さんでございます」とめでたく納めます。
 これでどんな夢が見られるか、悪い夢を見たときには獏に食わせると言います。この獏は、形は熊に、鼻は象に、目は犀に、尾は牛に、脚は虎に似、毛は黒白の斑で、頭が小さいという想像上の動物です。陶の枕に描かれているのを見ることができます。「夢は五臓の疲れ」と言って、悪い夢を見るのは肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓の五臓の疲れによるととりなすことがあります。これから先にこの慣用句は落ちとして登場します。また、夢解き、夢占いと言って、夢の吉凶を判断することが行われていました。夢を良く解いて千両富に当たったという例もあります。また反対に、日本を踏まえて立つという解き方によれば官僚として最高位にまで出世できる吉夢を妻に語ったところ、妻から、さぞ股が痛かったことでしょう、とつまらない解き方をされ、官位は順調に昇進したのに、ついには罪を得て失脚をしてしまった、大納言・伴善男(とものよしお)の例があります。

   七草                              (七草)
 松の内という言葉は十五日まで、現代では一応七日までということでしょう。正月七日は七草です。五節句の一つの人日(じんじつ)の宮中行事にならって、民間でも行われるようになりました。少し寄り道ですが、五節句とは、人日のほか、ひな祭りの三月三日(上巳・じょうし)、子供の日の五月五日(端午)、七月七日の七夕、菊の節句の九月九日(重陽)です。
 古くは、野辺に出て若菜を引いて、これを熱い吸物にして食べました。小倉百人一首の中にも「君がため春の野に出でて若菜つむ我が衣手に雪は降りつつ」という光孝天皇の歌があります。これが後に民間での七草粥になります。本来は若草の精気を身に取り入れるという行事でしたが、現代では、正月の飲食で疲れた胃を休めてやるためだと解釈されています。また、似たような宮中の正月行事があり、これは、子(ね)の日に野に出て小松を引き、この日にも若草を食べるというものでした。子の日が根延びにつながるとして、生命力を強める行事でありました。
 さて、春の七草は、芹(セリ)、薺(ナズナ)、御形(ゴギョウ)、繁縷(ハコベ)、仏の座(ホトケノザ)、菘(スズナ)、清白(スズシロ)の七つで、普段食べるのは芹、菘(青菜または蕪)、清白(大根)です。覚えるときは、「セリナズナゴギョウハコベラ、オトケノザ、スズナスズシロ春の七草」と唱えます。
 七草の二番目、薺は、実の形が三角形で三味線の撥に似ているところから三味線の音色を連想してペンペン草と呼ばれました。貧しい家の屋根に生えていることが多いところから、「ペンペン草が生える」というと貧乏になる代名詞で、「ペンペン草を生やしてやる」というと、相手の商売を左前にするという呪いの言葉になっていました。薺には、そのような無粋な呼び方とは別に、三味線草というきれいな名もあります。芭蕉は薺を「よく見ればなずな花咲く垣根かな」と、蕪村は「妹(いも)が垣根三味線草(さみせんぐさ)の花咲きぬ」と美しく詠んでいます。
 七日には、この七草を粥に入れる前に、まな板に載せて、「七草なずな、唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、トントンパタリトンパタリ」と包丁などで叩きながら囃すと、周りの者が「オテテッテッテ」と鳥の形をしながら唱和するという風習がありました。
 吉原の七越(ななこし)という花魁は、客の膳の物をつまむ癖があり、客がちょうど外に出ている隙に、膳の上のホウボウをつまみました。ところが、骨が喉にひっかかってしまいました。七越は痛がりますが、どうしようもありません。そこで客が、七越の背中を叩きながら、「七越泣くな、ホウボウの骨が、ささらぬうちに、二本の箸で、トントンパタリトンパタリ」と歌うと、七越が鳥の形をして、「イテテッテッテ」、という短い咄があります。
 長屋の人々には、七草(ななくさ)よりも、七草(しちぐさ・質草)の方が身近だったようです。こんな咄があります。羽織を借りた男が返しに来て、誰もいないので置き手紙をして帰って行きました。貸した男が帰って来て、置き手紙を見て、怒鳴り込みました。「貸した羽織を質に置くとはどういうことだ」「あれ、俺は棚に置くって書いたよ」と言うので、置き手紙を見ると「借りた羽織を七に置くよ」、「これではしちじゃあねぇか」「俺はたなに置くって書いたんだ。その字は七夕の『たな』だろ」。七の字の読み違いです。
 なお、同じ七草でも、秋の七草は野を彩る草で、こちらは目で楽しみます。『万葉集』に、山上憶良の詠んだ「萩の花尾花葛花撫子の花 女郎花(おみなえし)また藤袴朝顔の花」という旋頭歌が収められていて、秋の七草が覚えられます。この朝顔は早朝に咲く花の意味で、桔梗の古名です。

   藪入り                            (藪入り)

 一月と七月の十六日は地獄の釜の蓋が開くという藪入りです。もともと先祖を祀る日でしたが、奉公人が休みを貰って実家に帰る日となりました。七月は後の藪入りと言います。奉公して三年間は里心がつくといけないということで家に帰してもらえません。お使いの途中で家の者に会っても、公式には口をきくことさえ許されていないのです。そのきまりを守って、まじめにお店(たな)の仕事を覚えて、江戸で小僧・上方で丁稚から手代、番頭へと出世し、やがて暖簾分けをしてもらって別家を立てられるのです。誰もが、いつか一家の主になれることを夢見て、辛抱をしているのが奉公です。「奉公とは、公(きみ)に奉ると書く」と講釈を垂れるのは簡単ですが、奉公人にとっては、修行の日々です。
 一度も家に帰れなかったその三年目、いよいよ明日は藪入り、主人から貰った着物(仕着せ)と履物を枕元に置いて寝るのですが、嬉しくて寝られたものではありません。夜の開けるの今か今かと待っていて、飛び出して行きます。この様子を与謝蕪村は「春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)」という作品にしています。この作品は、藪入りに新しい着物を着た少女が、うららかな淀川の毛馬の堤を歩いて行き、やがて黄昏の頃、懐かしい故郷に向かい、家の戸口に母が弟たちと待っているのを見るまでを述べ、最後に「君知るや故人太祇の句 やぶ入りの寝るや一人の親のそば」と締め括る作品で、家の帰る少女の心と親子の情愛の温かさがしみじみと伝わってきます。
 一方、子供が三年振りに帰ってくるのを待っている親の方も、寝られたものではありません。奉公をしているところを遠くからそっと見にいったことはありましたが、ようやく帰って来るのです。明日は何を食べさせてやろうかと考え、「帰ってきたら、温かいおまんまを食わしてやんな」「わかってるよ、冷たい御飯なんか食べさしゃあしないよ」という会話から始まって、父親はあいつは何が好きだと、あれこれ食べ物を並べて、「ちょっとお前さん、そんなに食べさせたらお腹を壊してしまうよ」とたしなめられ、さらに、明日はどこへ連れて行こうかとどんどん夢が広がって、とうとう夜明かしをしてしまいます。
 朝日が差し、いよいよ子供が帰って来る時に、父親のそわそわは頂点に達します。「ごめんくださいまし、すっかりご無沙汰いたしましたが、お変わりなく」と聞いたことの無い挨拶の声がかかって、「へえへえ、どちらさまで」と、とんちんかんな言葉を返して見上げれば、すっかり大人びた我が子が立っています。「おっかあ、野郎大きくなったろうな」「何言ってんだよ、目の前にいるじゃあないか」「見られねえんだよ。目ぇ開けると涙がこぼれちまって」と久しぶりの親子の再会に、「藪入りや何にも言わず泣き笑い」という句がぴったりの情景が続く咄です。この後、子供が銭湯に行き、その留守に母親が小遣いをやろうと子供の財布を開け、中には小僧の身分では手に出来ないような十五円という大金が入っているので驚きます。二人は、ひょっとして、子供が悪心を起こしたのではないかと早とちりをして、子供を折檻する騒ぎになります。子供は、涙ながらに鼠を獲って交番に持って行った籤に当たった賞金だと説明し、一家には、やっともとの笑顔が戻ります。この大金を手にできたのも、主人を大切にしたから、「これもチュウ(忠)のお蔭だ」。
 もとからあった咄を改作し、ペストが流行して鼠駆除が急務となり、籤を作って奨励していた時代の咄にしたと落語事典に書かれています。
 なお、仕着せとは、雇い主から奉公人に、季節に応じて与える着物です。今日は制服でしょう。この与えられる意味が転じて、一方的に押しつけられた事柄ということになります。