浮世絵漫歩 21 保永堂竹内孫八の仕事

 

 先に保永堂竹内孫八について書きましたが、保永堂版と呼ばれる東海道五十三次を一覧表にしてみました。

東海道五十三次 全55枚
             初版版元表示 保永堂(43)・仙鶴堂(1)・連名(11)
             後版ができて 保永堂(47)・仙鶴堂(1)・連名(8)
 宿場名と副題     初版版元      後版    副題(改変)
 日本橋 朝之景    保永堂・仙鶴堂   保永堂  行烈振出
 品川 日之出     保永堂・仙鶴堂   保永堂  諸侯出立
 川崎 六郷渡舟    保永堂・仙鶴堂   保永堂
 神奈川 台之景    保永堂       保永堂
 保土ケ谷 新町橋   保永堂・仙鶴堂
 戸塚 元町別道    保永堂・仙鶴堂   保永堂
 藤沢 遊行寺     保永堂
 平塚 縄手道     保永堂・仙鶴堂
 大礒 虎ケ雨     保永堂
 小田原 酒匂川    保永堂       保永堂
 箱根 湖水図     保永堂
 三島 朝霧      保永堂
 沼津 黄昏図     保永堂
 原 朝之富士     保永堂
 吉原 左富士     保永堂
 蒲原 夜之雪     保永堂
 由井 薩埵嶺     保永堂
 興津 興津川     保永堂・仙鶴堂
 江尻 三保遠望    保永堂
 府中 安部川     保永堂
 丸子 名物茶屋    保永堂・仙鶴堂
 岡部 宇津之山        仙鶴堂
 藤枝 人馬継立    保永堂・仙鶴堂
 島田 大井川駿岸   保永堂
 金谷 大井川遠岸   保永堂
 日坂 佐夜ノ中山   保永堂・仙鶴堂
 掛川 秋葉山遠望   保永堂
 袋井 出茶屋ノ図   保永堂・仙鶴堂
 見附 天竜川図    保永堂
 浜松 冬枯ノ図    保永堂
 舞阪 今切真景    保永堂
 荒井 渡船ノ図    保永堂
 白須賀 汐見坂    保永堂
 二川 猿ケ馬場    保永堂
 吉田 豊川橋     保永堂
 御油 旅人留女    保永堂
 赤阪 旅舎招婦ノ図  保永堂
 藤川 棒鼻ノ図    保永堂
 岡崎 矢矧之橋    保永堂
 池鯉鮒 首夏馬市   保永堂
 鳴海 名物有松絞   保永堂
 宮 熱田神事     保永堂
 桑名 七里渡口    保永堂
 四日市 三重川    保永堂
 石薬師 石薬師寺   保永堂
 庄野 白雨      保永堂
 亀山 雪晴      保永堂
 関 本陣早立     保永堂
 阪之下 筆捨嶺    保永堂
 土山 春之雨     保永堂
 水口 名物干瓢    保永堂
 石部 目川ノ里    保永堂
 草津 名物立場    保永堂
 大津 走井茶店    保永堂
 京師 三条大橋    保永堂

 

次に、木曾海道六十九次を一覧にします。資料がとぼしいので、中山道広重美術館所蔵品をもとにさせていただきました。
錦樹堂とは、伊勢屋利兵衛、通称伊勢利という江戸後期の代表的な老舗版元です。 

木曾海道六十九次 全71枚  絵師 溪斎英泉(24)・歌川広重(47)
               版元 保永堂(24)・錦樹堂(43)・連名(3)
 宿場    絵師    版元       刊年
 日本橋   溪斎英泉  保永堂      天保6(1835 板橋    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 蕨     溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 浦和    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 大宮    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 上尾    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 桶川    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 鴻巣    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 熊谷    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 深谷    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 本庄    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 新町    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 倉賀野   溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 高崎    歌川広重  保永堂      天保6~7(1835~36)
 板鼻    溪斎英泉  保永堂・錦樹堂  天保6~7(1835~36)
 安中    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 松井田   歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 坂本    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 軽井沢   歌川広重  保永堂・錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 沓掛    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 追分    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 小田井   歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 岩村田   溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 塩名田   歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 八幡    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 望月    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 芦田    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 長久保   歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 和田    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 下諏訪   歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 塩尻    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 洗馬    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 本山    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 贄川    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 奈良井   溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 藪原    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 宮ノ越   歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 福島    歌川広重  保永堂・錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 上松    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 須原    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 野尻    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 三渡野   歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 妻籠    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 馬籠    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 落合    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 中津川(雨)  歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
  同    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 大井    歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 大久手   歌川広重      錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 細久手   歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 御嶽    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 伏見    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 太田    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 鵜沼    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 加納    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 河渡    溪斎英泉  保永堂      天保6~7(1835~36)
 美江寺   歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 赤坂    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 垂井    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 関ヶ原   歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 今須    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 柏原    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 醒井    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 番場    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 鳥居本   歌川広重  保永堂・錦樹堂  天保7~8(1836~37)
 高宮    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 愛知川   唄川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 武佐    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 守山    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 草津    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)
 大津    歌川広重      錦樹堂  天保8~9(1837~38)

 絵師と版元の関係
        溪斎英泉  歌川広重
  保永堂   23     1   24
  連名     1     3    4
  錦樹堂    0    43   43
  計    24    47   71

浮世絵漫歩 20 歌川国芳の金魚づくし

歌川国芳 金魚づくし
 歌川国芳の「金魚づくし」は、天保13年(1842)頃に出版されました。歌川国芳が朝桜楼と一勇斎の号を併用し、豊年印を使っている45歳の頃です。天保15年4月以降、国芳は三代豊国を継いだ初代国貞の一門になるのは嫌だとばかり、豊年印を捨てて、芳の字を桐の形に図案化した「芳桐印」を使います。
 版元は「村田」でしょう。アダチ版画研究所の作品説明では、「村田」は当時の版元仲間の自主検閲の印である極印としていますが、岩切友里子氏著の『国芳』(岩波新書)に「村田版」とあり、資料を調べましたが、この形の極印は他に例がなく、ほぼ同型の他の版元印があるところから、「村田」は版元名と判断しました。
 判型は浮世絵の一般的な大きさの大判の半分の中判です。大判の板に二点分の絵を貼って判を作り、摺り上げてから裁断して販売されました。十年ほど前までは「ぼんぼん」を除く八図が存在していました。ところが、「ぼんぼん」が発見され、もう一図の存在が考えられるようになりました。先年、大阪市立美術館で催された「江戸の戯画」展で、大坂で出版されたという「金魚 けんじゆつ」という中判の半分である小判の作品が展示されました。大坂では江戸の作品を縮小模写して出版されることがよくあったので、この「けんじゆつ」が国芳作品を縮小模写した可能性が言われています。十点目の国芳作品はまだ見付かっていません。
 
百ものがたり
 金魚たちが「百物語」の怪談会をやりました。百物語とは、百の灯心に火を灯して、怪談が一つ終わるごとに一つ消し、全部消えたときに幽霊が出るといわれている肝試しの怪談会です。金魚たちが百物語の会を催し、それが終わった途端、天敵とも言うべき猫の化け物が現れました。猫の手は幽霊の手の形に似ていまし、伸びた舌は不気味さ満点です。また、猫の瞳の中には白い線が入っていて、妖気を感じさせます。大柄な鯉は、勇敢に立ち向かおうとしますが、ほとんどの金魚や泥鰌は逃げ惑い、中には腰を抜かしていて、水盤の中は大騒ぎです。
 

さらいとんび
 街角で、金魚柄のとんび(鳶)が油揚げをさらっています。大切なものを横合いから奪われる喩えの「とんびに油揚げをさらわれる」を絵にしました。とんび金魚が持っているのは、油揚げの容れ物で、同じ物が歌川広景の「江戸名所道外尽 芝飯倉通り」にも同じような情景が描かれています。「こんりう」と書かれた緑の旗の横の猿の像は、「本堂建立」と言いながら、猿の像を引き回し、この像を本尊として本堂を建てるから寄進してくださいという物乞いの道具です。これを「建立奉加」とも言います。左の葦簀張りの茶店の行灯には「御膳 赤ぼふふり(ぼうふら)」「極附 みぢんこ(みじんこ)」と金魚向けの名物の品名が書かれています。
 

玉や玉や
 玉屋は、今日で言うシャボン玉売りです。玉屋は春の季語になっていますから、この絵は春の街角風景と見てよいでしょう。子どもたちが喜んで寄ってきています。江戸時代の玉屋が持ってくるシャボン玉用の液は石鹸水ではなく、ムクロジという大きな木の実の皮を煎じた液で、それを大人も子供も麦わらに付けて吹いて遊びました。ムクロジの実の皮は煎じると泡が立つところから、洗濯石鹸と同様に使われ、乾物屋で売られていました。ついでに、ムクロジの実の中の黒い種は、羽子突きの羽子の球に使われています。

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百ものがたり        さらいとんび         玉や玉や
 

まとい
 江戸の名物は「武士、鰹、大名小路、生鰯、茶店、紫、火消し、錦絵」と謳われています。火事の多い江戸の町の人々は、火事に勇敢に立ち向かう町火消しに好意を持ち、あこがれを抱いた人もいました。その一人がこの絵を描いた国芳です。江戸には、いろは四十八組、深川には十組の町火消しがいました。火事となれば組の印の纏を先頭に出動です。纏を屋根に立て、それを目標に水を掛けますが、水勢が弱いため。多くは、鳶口で延焼を防ぐために家を壊す破壊消防をしました。頭の蛙の後に続くのは水草で出来た纏、金魚たちが持っているのは水草の鳶口です。なお、町火消しのいろは四十八組ですが、組の名に「ひ・へ・ら・ん」の文字は使われず、代わりに「十・百・千・万」が使われました。
 

酒のざしき
 旦那が芸者、太鼓持ちを上げての宴会です。水草の盃を持ち、赤いぼうふらのつまみで呑んでいる旦那は、酔眼朦朧になってきています。姐さん株が三味線を弾き、若い芸者と修行中の太鼓持ちが踊っています。芸者の三味線は金魚を掬う網、踊り子が持つのは扇や花笠ではなく、睡蓮の葉と水草の花です。旦那の後ろに立つ蛙の太鼓持ちは、「よっ、旦那、いい案じ(お考え)、参りました」と首筋を叩いて旦那を持ち上げているようです。こういった茶屋遊びの理想を、「楽しみは後ろに柱前に酒 左右に女懐に金」という狂歌があります。
 

にはかあめんぼう
 にわか雨です。水草の傘を持っている用意の良い親子連れもいます。子供の手にはかわいい傘。傘を持たない者は、豆絞りの手拭いで頬被りして走ります。何も持っていない者は、着物の裾を被って、と言いたいところですが、金魚ですから尾鰭を被ります。蛙の手にするのは笠でしょうか。傘を片手に、強い雨脚にふと空を見上げたら、降ってきたのは雨ではなく、あめんぼうの群れが見えました。びっくりして開いた口がふさがりません。なお、あめんぼうは、正しくはあめんぼ、漢字では、水黽・水馬と書きます。

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まとい           酒のざしき         にはかあめんぼう
 
すさのをのみこと
 乱暴を働いたために姉の天照大神のいる高天原を逐われたスサノヲノミコトは出雲に来て、クシナダヒメが八岐大蛇の生け贄にされるという話を聞き、八岐大蛇退治に立ち上がります。スサノヲは八岐大蛇に酒を飲ませて、酔ったところを退治し、クシナダヒメを妻とするという場面を描いています。太刀を手にするのがスサノヲ、そばで怖そうに袖で顔を隠しているのがクシナダヒメ、鰻が八岐大蛇です。八岐大蛇では八つ用意された酒壺は四つ用意されています。神話の時代ですから、スサノヲの持つ太刀は直刀です。なお、この八岐大蛇の尾から出た剣が、三種の神器の一つ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、一名草薙の剣です。
 

いかだのり
 板を薄く削った経木を組んだ筏を、竿を使って流してゆく金魚の船頭です。尻を端折る形を鰭を端折った形にしています。奥は、蛙の船頭が櫓を漕いで進んで行きます。「竿は三年、櫓は三月」と言って、竿で操る方がむずかしいのです。蛙が直立すると、目が後ろに行ってしまうので、漕ぎにくいのではと余計な心配をしてしまいます。この絵は、全体が、箱庭の雰囲気を持っている絵です。箱庭とは、箱の中に土を入れて、小さい木や草を植え、陶器の家や橋を置いて庭を模した物です。そう思って見ると、鷺は足が針金で出来ているように見えてきます。
 

ぼんぼん
 お盆の夜、各町内で女の子だけが集まって、「ぼんぼん」で始まる歌を歌って町内を歩きます。この風習を「ぼんぼん」または「ぼんぼん唄」と呼んでいます。夏の暑い盛り、浴衣掛けで柳の下に集まった女の子たちが、大きな声で歌って歩きます。途中で、小さい女の子がぐずり出しました。どうしたの、と覗き込むお姉さんたち。それに気付かずに大きな口を開けて歌っている子もいます。柳の枝と見えたのは水草で、手にしている団扇は金魚を掬う「たも網」です。蛙の子が持っている団扇は水草の葉です。

 

 

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すさのをのみこと      いかだのり         ぼんぼん
 















 

 

浮世絵漫歩 19 歌川国芳の洒落 猫飼好五十三疋  

9歌川国芳「其まゝ地口 猫飼好五十三疋」の読み解き
 

 作品名は、「そのままじぐち みょうかいこうごじゅうさんびき」です。ずばり言葉の洒落、猫大好きな江戸っ子の歌川国芳が描いた、東海道五十三次の宿場名を猫にまつわる絵にした洒落です。
 なお、「地口」とは、ことわざや成句に同音または声音の似通った別の語を当てて、違った意味を表す洒落です。1日本橋から19江尻が上、20府中から39岡崎が中、40池鯉鮒から55京が下です。
 
   宿場名   読み     地口      意味
 1  日本橋  にほんばし  にほんだし   (鰹節を)二本出し
 2  品川   しながは   しらかを    白顔
 3  川崎   かはさき   かばやき    蒲焼
 4  神奈川  かながは   かぐかは    嗅ぐ(包みの)皮
 5  程ヶ谷  ほどがや   のどかい    喉(が)痒い
 6  戸塚   とつか    はつか     二十日(鼠)
 7  藤沢   ふじさは   ぶちさば    斑(ぶち猫)鯖
 8  平塚   ひらつか   そだつか    (子猫は)育つか
 9  大磯   おほいそ   おもいぞ    (この魚)重いぞ
10 小田原  おだはら   むだどら    (鼠を獲り損ね)無駄どら(猫)
11 箱根   はこね    へこね     (鼠に餌を取られて)凹(んで)寝
12 三島   みしま    みけま     三毛(猫)魔
13 沼津   ぬまづ    なまづ     鯰
14 原    はら     どら      どら(猫)
15 吉原   よしはら   ぶちはら    斑(ぶち猫の)腹
16 蒲原   かんばら   てんぷら    天麩羅
17 由井   ゆゐ     たい      鯛
18 興津   おきつ    おきず     起きず
19 江尻   えじり    かじり     囓り
20 府中   ふちゆう   むちう     夢中
21 鞠子   まりこ    はりこ     張り子
22 岡部   をかべ    あかげ     赤毛
23 藤枝   ふぢえだ   ぶちへた    斑(ぶち猫鼠獲りが)下手
24 島田   しまだ    なまだ     生だ
25 金谷   かなや    たまや     玉や(よくある猫の名)
26 日坂   につさか   くつたか    喰ったか
27 掛川   かけがは   ばけがを    化け顔
28 袋井   ふくろゐ   ふくろい    (頭を)袋へ
29 見附   みつけ    ねつき     寝付き
30 浜松   はままつ   はなあつ    鼻、熱(い)
31 舞坂   まひさか   だいたか    抱いたか
32 荒井   あらゐ    あらい     (顔を)洗い
33 白須賀  しらすか   じやらすか   じゃらすか
34 二川   ふたがは   あてがふ    (乳を)あてがう
35 吉田   よしだ    おきた     起きた
36 御油   ごゆ     こい      恋
37 赤坂   あかさか   あたまか    (魚の)頭か
38 藤川   ふぢかは   ぶちかご    斑(ぶち猫)、籠(の中)
39 岡崎   をかざき   おがさけ    尾が裂け(た化け猫)
40 池鯉鮒  ちりふ    きりやう    器量(よし)
41 鳴海   なるみ    かるみ     (体の)軽み
42 宮    みや     おや      親
43 桑名   くはな    くふな     喰うな
44 四日市 よつかいち   よつたぶち   寄った斑(ぶち猫)
45 石薬師 いしやくし   いちやァつき  いちゃつき
46 庄野  しやうの    かふの     飼うの(餌をちょうだい)
47 亀山  かめやま    ばけあま    化け尼
48 関   せき      かき      牡蠣
49 坂の下 さかのした   あかのした   赤(猫)の舌
50 土山  つちやま    ぶちじやま   斑(ぶち猫)、邪魔
51 水口  みなくち    みなぶち    皆、斑(ぶち猫)
52 石部  いしべ     みじめ     惨め(な猫)
53 草津  くさつ     こたつ     炬燵
54 大津  おほつ     じやうず    (睨んだだけで鼠が落ちる鼠獲り)上手
55 京   きやう     ぎやう     ぎゃう!(噛まれた鼠の悲鳴)

 江戸時代の猫は、長い尾と後脚で立ち上がって化けると人々が思っていましたから、尾は短くされていました。岡崎、鍋島など化け猫騒動の物語も多く作られています。
 46の庄野の「飼ふの」は、飼い猫に食べ物や水を与える意味です。猫に首輪が付いているのと猫が求めている姿から、飼い猫が餌をほしがっている場面と見ます。飼ってちょうだいという姿ではないと解釈します。

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「其まゝ地口 猫飼好五十三疋」 

浮世絵漫歩 18 保永堂竹内孫八

保永堂竹内孫八と保永堂版「東海道五十三次
 
 竹内孫八は天明元年(1781)生まれ、嘉永7年(1854)7月21日に、74歳で没します。井上和雄の『浮世絵師伝』(昭和6年刊)には、「眉山(びざん)」という項を立てて、以下の通り述べられています。
「竹内氏、俗称孫八、別に東一と号す、江戸霊岸島塩町に住し、地本錦絵問屋を業とせり。即ち彼の広重の傑作「東海道五十三次」の版元保永堂の主人なり。
 彼が画く所の人物画(大錦横絵)数枚及び、天保三年版の『俳諧歌六々画像集』、同四年版の『御大相志目多発鬻』、同年版の道化百人一首『闇夜礫』等を見るに、其の画風四条派の影響を受けたるが如き点あり、且つ時勢粧(じせいのよそおい)を主とせざる画風なれば、これを浮世絵師とするは当を得ざれど、少数ながら版書の作もあり、又広重との関係もあれば、姑(しばら)くこゝに収録しつ。彼の作品は天保三年乃至同七八年頃に止まり、風景を主としたるものは殆ど絶無なり、唯だ一つ「江戸名所の内、隅田堤のさくら」と題する大錦三枚続は、例外として広重風の手法を模したり。天保八年平亭銀鶏の著せし『現存/雷名 江戸文人寿命附』初編には彼を左の如く紹介せり、以て多少画名ありしを知るべし。
  『画』竹内眉山
  面白く画かける筆のはたらきは東(アヅマ)へとや人のいふらん
   極上々吉寿七百五十年」
と、版元として、また、浮世絵師としては認めにくいがという表現を添えて絵師として取り上げられています。
 さて、初代歌川広重は「東海道五十三次」の連作を生涯に二十種以上制作しています。そのうち、彼の出世作となったのが、天保4年(1833)から刊行が始まった連作で、当初大手版元の仙鶴堂鶴屋喜右衛門が企画し、そこに前述の小さな新興版元の保永堂竹内孫八が加わって、共同で出版されたものです。この連作は、完結時点では保永堂単独になり、保永堂版と通称されています。鶴屋がどのような経緯で撤退したかは明らかになっていません。
 ここで年譜の形で示します。なお、刊行は江戸から京都への宿場順になされたものとの前提で考え、日本橋からの順を付けてみます。
天保4年、「東海道五十三次」の刊行が開始されます。版元名で分類します。
 鶴屋・竹内連名 11図
 1.日本橋、2.品川、3.川崎、6.戸塚、8.平塚、10.小田原、18.興津、
 21.丸子、23.藤枝、26.日坂、28.袋井
 鶴屋単独 1図
  22.岡部
 竹内単独 43図
 4.神奈川、5.保土ケ谷、7.藤沢、9.大礒、11.箱根、12.三島、13.沼津、
 14.原、15.吉原、16.蒲原、17.由井、19.江尻、20.府中、22.藤枝、
 24.島田、25.金谷、27.掛川、29.見附、30.浜松、31.舞阪、32.荒井、
 33.白須賀、34.二川、35.吉田、36.御油、37.赤坂、38.藤川、39.知立
 40.岡崎、41・鳴海、42.宮、43.桑名、44.四日市、45.石薬師、46.庄野、
 47.亀山、48.関、49.坂ノ下、50.土山、51.水口、52.石部、53.草津
 54.大津、55.京師
天保4年12月、鶴屋喜右衛門が急死します。
 滝沢馬琴の『近世物之本江戸作者部類』に、「卒中であろう、享年四十六歳」とあり
 ます。
 この鶴屋喜右衛門の急死と、仙鶴堂の共同出版からの撤退とが結びつくのか否かは定
 かではありません。
◎翌天保5年1月、四方滝水による全55枚完結の文があります。
 めでたく刊行が完結して、目録が作られ、揃いで販売が始まったと考えられます。な
 お、この目録には宿場名と副題が一覧になっていますが、「戸塚 元町別道」が「戸
 塚 かまくら道」、「宮 熱田神事」が「宮 浜の旅舎」と大きく違っています。こ
 の目録に書かれた副題を持つ戸塚と宮の絵は描かれてはいないのでしょう。
天保5年2月7日~8日、「甲午火事」と称される大火が起きます。
 この火事で仙鶴堂も保永堂も共に焼けたと思われます。
◎時期不明、絵柄を改変した後版6点が作られます。
 版元名は竹内単独になりますから、鶴屋が共同出版から手を引いた後でしょう。この
 6図は、2月の火事に遭って板木が損傷したとも考えられます。
 後版になり連名から竹内単独に変更 5図
  1.日本橋、2.品川、3.川崎、6.戸塚、10.小田原
 もともと竹内単独名で、後版が作られた 1図
  4.神奈川
 鶴屋・竹内の連名として残った 6図
  8.平塚、18.興津、21.丸子、23.藤枝、26.日坂、28.袋井
天保5年頃 「近江八景」刊行
  保永堂は歌川広重作「近江八景」全8図を刊行します。
天保6年 保永堂が「木曾海道六十九次」の刊行を開始します。
 絵師は溪斎英泉、後に歌川広重が加わります。英泉の絵では少し硬い感じがしますの
 で、広重人気を求めたのかもしれません。刊行の途中から錦樹堂伊勢屋利兵衛が版元
 に加わり、保永堂との共同出版の時期を経て、錦樹堂の単独出版になります。この連
 作は天保8年に完結します。完結後、版権は錦橋堂山田屋庄次郎に移ります。この連
 作は絵師にも版元にも変遷があり、出版という業が水物であることを思わせます。
 
 さて、このように並べてみると、小さな版元保永堂は、天保4年から5年に満たない短い期間だけ版元として活動し、大評判になったであろう「東海道五十三次」によって名を残したと感じます。竹内孫八は、「東海道五十三次」を世に遺すために出版人になったとも言えるでしょう。
 竹内孫八は、「木曾海道」の出版に関わった後、約20年を生きています。

右下「広重画」の下に「竹孫(保永堂)/霍喜(鶴喜・仙鶴堂)」の連名(日本橋

右の「広重画」の下に「竹内(保永堂)」の単独印(原)

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左の「広重画」の下に「仙霍堂」の単独印(岡部)

 

浮世絵漫歩 17 葛飾北斎の百物語

葛飾北斎筆 百物語

 この連作の題の「百物語」とは、「怪談会の一形式。夜、数人が集まって、行灯に百本の灯心を入れて怪談を語り合い、一話終わるごとに一灯を消し、語り終わって真っ暗になった時に妖怪が現れるとされた遊び。」(広辞苑)です。
 この北斎の作品は、『冨嶽三十六景』を制作していたのと重なる時期の、天保2年から3年(1831-32)頃に刊行されました。それぞれの題名のコマ絵には、作品名の他に、「百物語/前北斎笔(筆)/霍(鶴)喜板」と入っていて、版元が老舗の鶴屋喜右衛門であることが判ります。現在まで5点が見つかっています。5点のみで出版が続かなかった理由として、摺度数が多く、手が込んでいるのが一因とも考えられます。また、天保4年に鶴屋の主人が急死したことも何か関係があるのかも知れません。
 ここでは、2020年の東京都美術館での浮世絵三大コレクション展の目録順に、少々の解説を試みました。

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お岩さん
 四世鶴屋南北(1755-1829)作の『東海道四谷怪談』を基にした作品で、お岩さんは、夫民谷伊右衛門に殺され、幽霊となって現れます。 半面が腫れ上がった顔で描かれることが多いですが、ここでは、歌舞伎の舞台で、お岩さんの幽霊が提灯から出現する場面(提灯抜け)に因んで「南無あみた(阿弥陀)仏/俗名いは女」と書かれた提灯と共に描かれています。額の梵字風の模様は該当する文字が見付かりません。額の皺の象徴でしょうか。

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しうねん・執念
 財宝に未練を残して死んだ者が、死後蛇になってその財宝を取り巻いています。位牌の上に書かれた文字は、「時于天捕(補)之革/茂問爺院無噓信士 空/御正月日待咄」とあります。一行目は「ときに・てんぽのかわ」で、「でまかせだよ」、二行目は「ももんじいいん・うそなししんじ」で、「ももんじい」は「毛深い化け物」のこと、よく、子供を脅かす時に使う言葉でもあります。三行目は、「おしょうがつひまちばなし」で、日待とは、正月に人々が集まって話をしながら夜を明かして日の出を拝む行事です。上にある梵字のような模様は、人の横顔です。全体に、洒落の位牌ですよ、ということです。茶碗の「卍 」は北斎の画号と判断します。なお、「も・もん・じい」は「百掛ける百・字」で「万字」を示すと説く人もいます。

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こはだ小平二・小幡小平次
 小幡小平次山東京伝(さんとうきょうでん・1781-1816)の 読本『復讐奇談安積沼』(ふくしゅうきだんあさかぬま)中の人物です。しがない歌舞伎役者で、妻の浮気相手伝九郎に奥州安積沼で殺され、幽霊となって出現します。この絵は、邪魔な小平二を殺害後に、二人が蚊帳の中で寝ているところを上から覗き込む小平二の姿です。

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笑ひはんにや・笑い般若
 絵の基になる物語はありません。般若は、角があり、妬みや苦しみ、怒りを持つ女性の姿を表しています。この般若は、笑いながら小児の頭を握っています。この小児の首の切り口が、柘榴のように見えます。柘榴は、鬼子母神が手にする果物で、その鬼子母神北斎の信仰した日蓮宗と縁が深いところから、この般若像は鬼子母神を描いたとも考えられます。

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さらやしき・皿屋敷
 1741年初演の為永太郎兵衛・浅田一鳥合作の『播州皿屋敷』の中で、青山鉄山が陰謀をお菊に聞かれたので、口封じのためにお菊が管理している皿一枚を隠して、それを咎として責めて斬り殺し、井戸に捨てます。お菊の亡霊が井戸から出現する姿を描いた絵で、首が皿になっています。口からの妖気は、もともと紅であったようです。

浮世絵漫歩 16 喜多川歌麿のビードロを吹く女(娘)

喜多川歌麿画 「ビードロを吹く女(娘)」(婦人人相十品 相観)

 

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 未婚の若い女性の輝きを、白キラの背景で表しました。キラとは、鉱物の雲母で、キラキラするところからに通称です。キラを画面に載せるには、細かい粉末にした雲母を膠と混ぜ、人物像の上にその形に切り抜いた渋紙を載せて覆いとして、刷毛で塗り付けます。

  未婚女性ですから髷は島田髷、その根元に掛けている布を手絡(てがら)と言います。若い女性は派手な赤を使い、年齢を重ねると地味な色になります。落語「品川心中」の中に、年齢がいって客が付かなくなった遊女に対して、「紫ゃおうちの食いつぶし」という言葉が出て来ます。
 着物は、石畳模様と呼ばれていた柄を、1741年に佐野川市松が舞台で袴に袴に用いたところから人気となり、以来、市松模様と呼ばれるようになった地に、桜を散らした「桜市松」です。帯は松の幹の形を写した松皮菱という模様です。

 手には、玩具の「ビードロ」を持っています。底が薄いガラスになっていて、息を出し入れすると鳴るのですが、その音が「ぽぴん」「ぽぺん」と聞こえるところから、この玩具を「ぽぴん」「ぽひん」などと呼ばれます。『広辞苑』の別名は、ぽっぴん、ぽんぴん、ぽぺん、ぽこんぽこん、『日本国語大辞典』の別名は、ぽぴん、ぽへん、ぽっぽん、ぽっぺん、ぽひんぽひん、ぽんぴん、ぽぺん、ぽこんぽこんと、いずれもその音からきています。そこで、この浮世絵の通称も、「ぽっぴんを吹く女」とも言われます。
 なお、「ビードロ」は、ポルトガル語でガラスのことです。室町末期に長崎に渡来したオランダ人によって製法が伝えられました。さらに、透き通るように美しいというところから、美人、美女の形容にも使われていると『日本国語大辞典』にあります。この浮世絵の名称を考えた時に、そこまでの意味を含ませたのでしょうか。
 なお、『落語事典』に、「ある目を患った男が入れ目をして遊びに行ったところ、馴染みの女が、『あらお前さん、いい男になったね』と口づけをして吸ったら、入れ目が『ぽかんぽかん』」という、小咄「ぽかんぽかん」が載っています。

 

 

 





 




 

浮世絵漫歩 15 復刻

私説 ふっこく 覆刻・復刻・複刻
 

 浮世絵の復刻について、どういう意味かと問われるので、「ふっこく」全般について思うところを書きました。
 辞典で「ふっこく」という語を引くと、覆刻・復刻・複刻と漢字が当てられています。50年ほど前までは「複刻」は誤りとされ、覆刻・復刻が使われていました。この三語についての私説を述べます。
 「ふっこく」ということは、版を作って印刷した本を再製したい時に、元の版が存在すればそれを使って再製します。版が無い場合は、元の本を原稿として版を彫り直すことです。原稿として使う時に、元の本をそのまま使う方法と、元の本はそのままにして、元の本を敷き写しにして使う方法とがあります。いずれにしても版になった原稿を板木にかぶせるので、「かぶせぼり」と呼びます。これが覆刻です。覆刻は、どうしても原本よりも線が太るということです。
 さて、「覆刻」という熟語を、新聞用語として使う時に、「ふく」の音を通じて「復刻」としました。以来、二つの用字が使われるようになりました。新たに生まれた「復刻」は、「復」字が板木に原稿をかぶせるという意味を感じさせず、「また、再び」という意味にも取れます。そこで、再度版を彫り直すという意味が強く感じ取れるようになりました。株式会社アダチ版画研究所が高度な技術で製作している「復刻浮世絵」は、まさに、現代の名匠が卓越した技術で江戸の技術を再現した作品になっています。単に板を彫って摺って、初版の風合いを再現するというのではなく、制作の中で先人の技術を学び、後世に伝えるという役目を果たしているのです。
 近代になり、板木を彫る(刻)ということだけでなく、写真が活用されるように也、版本や活字本を写真版で複製することが行われ、これにも、「復刻」が使われるようになりました。
 1968年、日本近代文学館と株式会社図書月販が製作して、「名著複刻近代文学館」がシリーズとして世に出ました。このシリーズは、明治・大正・昭和の著名作の初版本を、単に写真版で複製するという一般の「復刻」とは一線を画すものでした。製作にあたって、資材・製本様式まですべて原本そのままに再現するという方針を立てました。用紙、印刷、製本にの一つ一つの工程が手探りで、それぞれの熟練職人の知識と技術を集めて作られました。こうしえ出来上がった作品は、単なる復刻ではないということで、「ふっこく」の音はそのままとして、「複製」の「複」字を使って、「複刻」という新たな熟語を作り出し、シリーズ名にしたのです。
 この「複刻」という語は、当初、妙な造語であり、誤字を蔓延させると評判が悪く、わざわざ「複刻は誤り」とまで注記されたものでしたが、図書月販あらため株式会社ほるぷの販売力が勝ったのでしょう、とうとう辞典にまで記載され、熟語として認知されるようになりました。ついでに記すと、ほるぷが販売・普及した複刻は、古典文学から昭和の太宰治にいたる日本の作品だけでなく、海外作品まで数多いのです。
 

参考資料として、コトバンクから引用させていただきます。
覆刻本
 既刊の版本、または既刊の版本を敷き写しにした本を、裏返して版木に貼(は)り付け、原本どおりの文字の形に彫刻、印刷した本。この方法をかぶせぼりといい、版本の再製方法の一種である。類似の再製方法に、敷き写しによる影写本や、近代の写真製版による影印(えいいん)本がある。覆刻本は影写本に比して多量生産が可能であるのみならず、新しい版下書きを要せず、簡便であるから、古くから盛んに行われ、中国では宋(そう)代、わが国では鎌倉時代にすでにその例がある。鎌倉時代から江戸末期までの間に、中国から輸入された唐本が多数覆刻されて、わが国の学術や印刷文化の向上に大きく寄与した。また、江戸初期には古活字版を覆刻した整版本が多数出版されて流布した。覆刻本はおおむねきわめて精密に、原本どおりの文字の形に彫刻されるから、しばしば原本と見誤られ、混同されることがある。原本を得がたい場合、それにかわるものとして資料価値が高い。なお一般に、復刻本、複刻本と記して、既刊の図書を影印したものの総称としても用いられる。[福井 保]
                   出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)