説経かるかや 6 福福亭とん平の意訳

かるかや 6

 与次殿は、石堂丸様がお山から下られるのと、不動坂で出会いました。与次殿は石堂丸様のお姿をご覧になり、「さて、そこに下りてくるそなたは、昨日母上がお亡くなりになったということがお山まで伝わって、そのために卒塔婆を担いで来たのであるか、そのような仕度ができるものならば、どうして昨日のうちに下りてきて、母上の死に目に会わぬのか」と怒って声を掛けます。石堂丸様はこの与次殿の声に、「いやこれはは笛のための卒塔婆ではありません。では、母上はどうなられたのでございますか」と問い掛けます。与次殿はこの答えを聞いて、「あなたのお母様である奥方様は、昨日の八つの刻にお果てなされましたのじゃ」と言います。石堂丸様はこの言葉に、「なんという情けないことじゃ、ああ、縁起の悪いこの卒塔婆め」と、持って来た卒塔婆を身の左右へがらがらと捨てて、急いで麓の与次殿の方ヘお着きになりました。
 石堂丸様が枕屏風を外して仲の様子をご覧になると、ああ、お可哀想に奥方様は浄土へと向くに北枕で寝かされていまして、石堂丸様はこのお姿に、「これは夢か、覚めてのことか、現実のこの世のお別れなのですね」と奥方様のお体を揺り動かしてはわっと泣き、抱き付いてわっと泣き、顔と顔を押し当てて、あれこれと嘆かれるご様子はお気の毒なことでございました。
 「これこれ、お母様、どうしてこの石堂丸をねえ、勝手を知らないこの山中に、誰を頼りにせよと放り出されて、お亡くなりになられのですか。どうしても行かなければならないあの世への道ならば、どうしてこう言っている私も母上様と一緒にお供をいたしましょう」と止めどない涙を流されて、さめざめとお泣きになられました。
 石堂丸様はあふれる涙を抑えるようになさって、手向けの水を取り寄せられ、母上の引き結んだ口を開いて、小指で水を手向けて、「今差し上げるこの水は、浄土で同じ蓮の上にいらっしゃるルカや様の末期の水です。また、次に差し上げるこの水は、国元筑紫に残って来た姉千代鶴姫の末期の水です。またその後に差し上げるnこの水は、この度お供をして、いても頼りにならなかった石堂丸の末期の水です。そrぞれをよろしく受け取られて、成仏なさってください、あせ」と、繰り返し回向して、ああお気の毒に、石堂丸様は、この土地に頼りになるつてが何もないので、身支度をして、お山へと上られました。
 石堂丸様は高野山の峰にお着きになって、父苅萱の相弟子様に近寄って、「これ、お願い申します相弟子様、麓で待っていらっしゃった母上様が亡くなられてしまいました。お坊様の縁続き、どうか母上の葬儀を行ってくださいませ、相弟子様」と頼みますと、父苅萱殿はこの言葉をお聞きになって、すぐさま、取るものも取りあえず、石堂丸様と御一緒に、蓮華坊へと入り、剃刀一挺を懐に入れて、麓へとお下りになりました。
 苅萱殿は途中の不動坂でしばらく立ち止まり、思い付いたことがある、麓においでの我が妻が、あの子を呼び寄せて、山の様子を細かく聞き取って、あの子がお山でこのようなお坊様にお会いした語っていたならば、奥方がそれを聞いて、それは相弟子ではなく苅萱本人であろう、計りごとで呼び寄せて、謝らせようとしているのだと思われる。これは山を下ってはいけないところだとお思いになり、ひとまず石堂丸様にこしらえごとを仰います。苅萱殿が「これ、筑紫の幼い人よ、山から里へ下りる時には、師匠に許しをもらって下ることになっている。今般はそなたが判る通り、まだ師匠の許しを得ないでくだろうとしているのじゃ。そなたは先に行ってくだされい。私は後からすぐに行こう、若い方」と仰いますと、石堂丸様はこのお言葉に、「決まりを守るのも時によると申します。お坊様の衣の縁に縋ってのお願いでございますから、私が偽りであなた様を欺すようなことはございません」と、苅萱殿の袖をしっかりと押さえました。苅萱殿はこの言葉の様子に、この幼い者がまさか噓は言うまいと判断して、お山の麓へとお下りになりました。
 お宿となった与次殿は山を下ってくる人を見て、「さて、今まではどなたがお山からお下りかと存じておりましたが、蓮華坊様でいらっしゃいますか。さてさて私は、旅の奥方様に一夜の宿をお貸しして、このようなつらいことに出遭ってしまいました。これからは委細、蓮華坊様にお任せいたします。この方を弔って埋葬して差し上げてください、蓮華坊様」と頼みましたので、苅萱殿はこの与次殿の言葉を聞いて、奥方様の傍に誰もないのは、私にとって嬉しいことと思って、妻戸をきいきいと押し開いて、屏風を拓いて中をご覧になると、ああ可哀想に、奥方様は、北枕の浄土に向かう形で寝かされて、亡くなられていました。苅萱殿は奥方様の亡きがらにがばと抱き付いて、そのお体を揺り動かしてはわっと泣き、顔と顔を押し当てて、さぞやさぞこの世を去られるその時にそなたを置いて出奔したこの重氏のことをお恨みになられたことであろう。どうか、あまりに深い恨みはなさってくださいますな。あなたを愛おしく思う心は決して変わってはいないのです。心変わりはしていない証として、あなたの後生を弔って差し上げましょうと、苅萱殿は懐から剃刀を取り出して、奥方様の阿k身を剃ろうとなさいますが、今を去ること十三年のその昔に、思いを思いを捨てた奥方のことではありますが、その頃の良い思い出があれこれと浮かんできて、とても奥方の頭に剃刀を当てられませんが、それでも心を励まして奥方の髪を四方の仏のいる浄土へ向かえと剃り落として、やっとのことで輿みお載せして、この輿の先棒を苅萱殿が担ぎますと、後棒を石堂丸様が担がれました。野辺の送りを早く致そうとして、、千町が野へと送って、栴檀の薪を積んで奥方の遺骸を焚き上げ、諸行無常まことに無常、この火は、人の心の貪り・怒り恨み・愚かな迷いを消すためとなりと火葬をいたしました。
 悲しみの中で苅萱殿は、石堂丸様に近く寄って、「もし、これ、筑紫の若いお方、このそなたのお母様のお遺骨は、私がお山へ持って上って、納骨堂へ納めることにします。あなたは故郷の国に姉上があるとのことだから、そちらへこのご遺髪を持って行って、お母様の形見とお渡しなさい」と仰って、苅萱殿は心を強く持って話され、この期に及んでもご自分のお名前を仰らずに石堂丸様を突き放されますが、そのおこころの内はお気の毒でございました。
 この苅萱殿の物語はこのあたりにいたしまして、ここでまた、もっとお気の毒なのは石堂丸様が、一番お気の毒でございました。ああお可哀想に石堂丸様は、お母様のご遺髪を首から掛けて、筑紫を指してお下りになります。お可哀想な石堂丸様は、道中で寂しくなった時にはこのご遺髪を取り出して、嘆きごとを申し上げるのは、お気の毒でした。「このご遺髪となられた母上様と御一緒に父上をお探ししたその時は、これほど道中が遠くなかったのに、今一人で帰るこの道の遠いことよ」と、泣いたり嘆いたりをしながら筑紫へとお下りになりました。
 石堂丸様が足を速めて進まれますと、それから間もなく大筑紫へとお着きになりました。石堂丸様は我が屋形の門前にお立ちになって、屋形の様子をお聞きになります。屋形の内からは千部万部のお経を上げる声が聞こえます。石堂丸様はこの声をお聞きになり、「悪事千里を走る」とは、こういうことの譬えを言うのであるか。御両親様が亡くなられた話が、私がここに着くより先に伝わってきて、もうお弔いをなさっている、ああ、嬉しいことよとお思いになり、門の中へとお入りになりました。
 石堂丸様の乳母や身の回りをお世話する人たちは、石堂丸様の左右から抱き付いて、「ああ、とてもご運のよろしいのは石堂丸様、さてさて、御父上様にはお会いになられたのですか。母上様はこちらにお戻りになるのですか。ご不運なのはあなたのお姉上様ですねえ。あなた様とお母上様がご出立なされてからすぐに、『お父様が恋しいよ、お母様が恋しいよ、石堂丸に会いたい』と、恋しい恋しいとおっしゃっていらっしゃいましたが、その恋心が積もりすぎたのでしょうか、それとも御寿命が尽きられたのでしょうか、とうとう亡くなられてしまったのでございます。これが姉上のご遺骨、ご遺髪」と、石堂丸様にお渡しになります。石堂丸様はこの二つの品を見て、「なんとも悲しいことだなあ、何と姉上お一人を親と思って子として慕い、またわが主とも思って、深く頼りにしてお宿として帰って参りましたのに、頼り手が何もないはかない立場はこの我、石堂丸のことであるなあ。もうこの大筑紫の国に留まる気がしない」と仰って、国を一門の人々に預けて、姉上の御遺髪を首から掛けて、高野山を指してお出掛けになりました。
 高野の山にいらっしゃる父の苅萱殿は、幼い我が子がどのように国を治め保つのであろうか、そっと様子を見て来ようとお思いになって麓へとお下りになると、不動坂で石堂丸様と出会われました。苅萱殿は石堂丸様をご覧になって、なんとこの若い子は国に帰らず、なんともこの地に長居をするものだと呆れ、「どうしてさっさと国ヘくだらないのだ」とお叱りになります。石堂丸様はこのお叱りをお聞きになって、「いえいえ、私は国元へと下りましたが、国元にいらっしゃる姉上様も亡くなられていらっしゃいましとのです、父上の相弟子様」とお答えしましたので、苅萱殿はこのお答えをお聞きになり、それならば、たった今、孤独になったあの子一人に、「我はそなたの父重氏である」と名告って聞かせたいと思いましたが、新黒谷で立てた誓文を破った時の罰の恐ろしさに、ここで我はそなたの父であるとのお名告りはありませんでした。心を強くしてっと堪えきった苅萱殿のお気持ちはとてもお気の毒でございました。
 その後、石堂丸様は、父の苅萱殿の手によって髪を四方浄土へ回向する形で下ろされ、髪を剃って後の僧の名として、道心の道の字を受け取って、道念坊と名を付け、それから道念坊様は谷間の水を汲み、山へ行っては木を伐って、朝夕念仏を唱えて、すっかり修行に打ち込んでいましたが、山内で木を採る法師たちが二人の様子を見て、「蓮華坊と道念はとても仲が良い。その上、道念坊は蓮華坊と実によく似ている」と言って、様々に評判しました。
 父の苅萱殿はこの噂をお聞きになって、まことに人の口は意地悪なもので、万一二人が親子と悟られては、今まで隠し通して後世を願ったことが皆無益になるとお思いになって、道念坊の石堂丸様に作りごとを仰います。「これこれ、道念よお聞きなさい、私は心が生まれた国ヘと向いている。そこで、この寺をそなたに預けて出発する。ひょっとして、この世は定めのないことばかりであるから、万一、私がこれが限りとなって、南の空に紫の雲が立ったなら、この私が亡くなったと思っておくれ。私の旅先で、北の空に紫の雲が立ったなら、私は道念が亡くなったと思おう。この寺を護っておくれ。これでお別れじゃ、道念さらばじゃ」と仰って、高野の山を立ち去られて、新黒谷で百日と時を鍵っての念仏をして、この新黒谷では心が落ち着かないということで、信濃にある、諸国にその名が高い善光寺の奥の御堂に取り籠もって、朝夕欠かさず念仏を上げて、ひたすら修行をなさっておられまして、御寿命はとりわけめでたく長くいらっしゃって、八十三歳の三月二十一日の朝、辰の刻の辰の一点というその時に、めでたく安らかな往生を遂げられました。この時南の空に紫の雲が立つと、高野の山にいらっしゃった道念坊も、六十三歳でしたが、同じ月同じ日、しかも同じ辰の一点という時にお亡くなりになられまして、北の空に紫野雲が立ちました。この時、天から蓮華が降り、かぐわしい香りが漂って、そのありさまは、言葉で表しようがありません。この世に生きている時は、親とも子とも姉弟のきょうだいとも、名乗り合いはなさらかったけれども、来世では親とも子とも呼び合って、一家一門、いっさいの親族、七世の父母に至るまで、皆々一つ浄土に集まられました。
 臨終の時に来迎する二十五の菩薩たちが、亡くなった人を悟りの浄土へと送る船を進ませて、「あのような後生を大切に祈った行者を、さあ、仏としてお祀りしよう」と仰って、信濃の国善光寺の奥の御堂に、親子地蔵としてお祀りしたのは、仏法の衰えた世の人々に拝ませようとするためでございます。このことは現代に至るまで間違いの無いことでございます。このように、親子地蔵の由来の物語を、ここに語り納めるますが、この土地も国もめでたく豊かに栄えるのでございます。

説経かるかや 5 福福亭とん平の意訳

かるかや 5

 奥方様は与次殿の話をお聞きになり、「それでは、私はお山に上ることは叶わないのか、悲しいこと、あの子一人で上らせようか。しかしながらあの子はね、私のお腹の中で七か月半の時に重氏殿に捨てられた赤子のことだから、実の父の重氏殿に尋ね会ったとしても、その顔を見知っていないではないか、悲しいことよ。しかし、それでも仕方がない。明日はお山へと上りなさい、石童丸よ」と仰いましたので、石童丸はお聞きになり、「それでは仕度をして上りましょう」と仰いましたが、いたいけなことでございまして、奥方様は石童丸様を近くに呼んで、「これこれ石童丸よ、よく聞きなさい。父重氏殿に尋ね会っても、またはお会いできなくても、お山で二日間尋ねたら、そのまま帰っておいで、石童丸よ。お山にいつまでもいて、この母に心配をかけてはいけません、石童丸よ」と仰いますので、お気の毒なたちあbの石童丸様は、その夜が明けてきた早朝に、旅装束をお着替えになって、高野のお山を指してお上りになりました。
 石童丸様が山に上られると、向こうから五人連れのお坊様が下りておいでになりました。石童丸様はその声を お聞きになり、あの五人のお坊様のその中に、父の苅萱道心がいらっしゃるかをお尋ねしようとお思いになり、だんだんに坂をお上りになりました。「もうしもうし、ここのお聖様、お尋ねを申し上げまする。というのは、この山に仏道修行の方はいらっしゃいますか。ご存じでしたら、お教えください、お聖様」とお尋ねします。五人連れのお坊様たちはこの問いかけに、「なんと、この若者は妙なことを訊くものよ。この五人も皆仏道修行者じゃ」と言って、どっと笑って通り過ぎました。石童丸様は足を早めておいでになると、高野のお山に着きました。
 ああお気の毒なは石童丸様で、一人のお坊様の近くに寄って、山の中の寺院の数をお尋ねします。お坊様はこの問い掛けに、「院の数は七七、四十九院ある。山内にいる坊さんの数はと言えば、お大師様の書き置かれた金の御文という書にも、九万九千人と可掛けている」というお答えでした。石童丸様はこの答えをお聞きになり、「ああ何と大勢のお坊様の数なのだろう、どうやって尋ねようか」とお考えになります。山の中の建物は、大塔・講堂・御影堂があります。また、墓のあちこちに立つ高卒塔婆は、この国々の人々の涙が籠もっています。石童丸様はこの山内を、今日は父上にお会いできるか、また翌日には、今日こそはお会いできるかと思いながら、六日の間お尋ねになりましたが、父上の道心様にはお会いになれませんでした。
 ああ、お気の毒な石童丸様は、ああ、私は忘れていた。麓で待っている母上様のお言いつけには、二日間尋ねて父上に会えても、またはお会いできなくても、二日間尋ねたら、すぐに帰って来いと仰られていたのだ、明日は早くこの山を下って麓へと戻り、母上様にこの様子をお伝えしようとお思いになりました。
 あ、お気の毒な石童丸様、翌朝早く空が白むと、奥の院にへとお参りして、麓においでの母上様にご報告申し上げようとして奥の院にお参りすると、親と子の縁というのでありましょうか、父の苅萱道心様が奥の院から花を肩に載せて下られるのと、石童丸様が奥の院へとお上りになるのと、行きと帰りのある無常の橋の上で擦れ違ってお通りになりました。親はこれが我が子と顔を見知っていません。子もまたこれが我が親とは見知っていません。お二人はそのまま行き違ってお通りになりました。
 ですが、親と子の機縁・契りはなんと深いものでしょう。石童丸様は立ち戻って、父苅萱道心様の袖に縋り付いて、「これもうし、お聖様、お尋ねをさせていただきます。この山に仏道修行をなさる御聖様がいらっしゃいますか。ご存じでしたら、お教えください、お聖様」とお尋ねになります。
 父の苅萱道心様はこの問い掛けをお聞きになり、「なんと、この幼い人は、妙なお尋ねをするものじゃ。この高野の山で人を尋ねるには、そなたのような尋ねようはしないものじゃ。この山で人を尋ねる時は、三か所に札を立てるのじゃ、そうすると、尋ねられた者が、会うまいと思えば札を引き抜く、追うと思えば札に札を添えるのじゃ。そこで、札を立ててから、三日の内にその消息が知れる。全体に、この山内にいる者は皆仏道の修行者でいらっしゃるぞ。それはともかくも、そなたの生国を言い、尋ねる人が百姓ならば故郷の所、侍ならば国の出身、名字に俗名、氏素性と位を私に細かく語るのならば、こう話す私もそなたと一緒に尋ねて差し上げよう、お若い方」とお答えになりましたので、石童丸様は、この苅萱殿のお答えに、「ああ、とてもご親切なお聖様ですね、さてそう仰ってくださいますならば、私の先祖を詳しく申し上げましょう。さて、私の国を申しますと、大筑紫筑前の国、詳しく庄を申しますと苅萱の庄で、父の名を申し上げると重氏でございます。加藤左衛門と申します。父の重氏殿は二十一歳、母上様は十九歳でした。姉の千代鶴姫は三歳でした。一方、こう申し上げる私は、まだ母の胎内にあって七か月半のその時に、父の重氏殿は嵐に花が散るのを見て急に仏道への心を起こして
都で評判の高い新黒谷で髪を剃って出家し、名は苅萱の道心とお名告りになっていらっしゃるということを、風の便りに聞きまして、母上と私が新黒谷をお尋ねして、お上人様に事情をお話しすると、父上は、家族と二度と対面するまい、顔も見るまい、言葉を交わすまいとして、この高野のお山にお上りになったと伺ったのでございます。私は父上がとてもとても恋しくて、ここまで尋ねて来たのでございますよ。父上の子とをご存じでしたら、教えてくださいませ、お聖様」と話しました。
 父の苅萱殿はこの石童丸の語るのを聞いて、ああ、このようなことを聞かされると知っていたら事情を聞くこともなかったであろうに残念なこと、我が子の姿を見れば可哀想なと、石童丸に知られないようにと流す涙が止まりません。
 石童丸様はこの苅萱殿の様子をご覧になって、「もしもし、お聖様どうなさいました、私がこのお山に上って七日間父上をお尋ねしましたが、あなた様のように心優しく涙脆いお聖様に出会いましたのは今が初めてです。あなた様はきっと父上のことをご存じなのですね。ご存じでした福岡の御笠川石堂橋橋桁にある苅萱親子像   ら、どうかお教えください、お聖様」と頼みます。
 父の苅萱殿はこの言葉をお聞きになり、なんと賢い子なのだ、私がその父苅萱と悟られてはならぬとお思いになり、とっさに偽りを仰います。苅萱殿が、「これこれ、その筑紫のお若い方、この私の身の上は、そなたの父上苅萱の道心殿とこの私とは、同じ師匠の弟子同士でありますのじゃ。里ヘ下るのも一緒に語らって下る仲であった。このように仲良く過ごしていたのじゃが、苅萱殿は思いも掛けぬ病を受けて、お亡くなりになられてしまったのじゃ。今日はなんと苅萱殿の命日で、苅萱殿のお墓参りをしたところ、縁あってそなたに出会うことになったのじゃ。その不思議な縁に、涙がこぼれるのじゃ、お若い方」と仰いますと、石童丸様はお聞きになり、「父上が亡くなられたとは真のことでございますか。なんとまあ悲しいことじゃ。これは夢か覚めてのことか。今この実の世の別れなのじゃなあ。もしもし、いかがでしょうか相弟子様、私はお父上にお目にかかる気持ちでお墓参りをいたしましょう。地杖のお墓を教えてくださいませ、相弟子様」とお願いしますと、苅萱殿はお聞きになって、自分が建てた卒塔婆はあるが図がなく、旅人が後世を祈ってお建てになった高卒塔婆の所へと石童丸様をお連れして、「これこそそなたの父上の苅萱殿のお墓です」とお教えになりました。
 石童丸様は案内されて、教えられた塚の所に倒れ臥して、「これこれ、お父様お聞きください。ここにおりますのは、母上の胎内で七か月半になった時に捨てられた赤子が、生まれて人となって、ここまで尋ねて参りましたのです。どうかこの塚の下からでも良いから、もう一度『石童丸よ』とお言葉を掛けてくださいませ」と、涙は止めどなく流れて、たださめざめとお泣きになりました。
 石童丸様は流れる涙ながらに、懐から暖かい絹で作られた衣を取り出して、塵埃をすっかり払って、その頃を墓標となっている卒塔婆の上に掛けて、卒塔婆に抱き付いて、「もうしもうし相弟子様、お父様に尋ね会ったなら、まずこのようにこの衣をお着せして、お父様に抱き付けたと思えばどれくらい嬉しいことかと思っていましたが、今は形だけ卒塔婆に着せ掛けるだけです。つまらないこと」と言って着せ掛けた衣を卒塔婆から引きはがし、押し畳んで手に持って、苅萱殿に向いて、「もうしもうし相弟子様、この衣は三つで父上に捨てられた、今年十五歳になった姫が自らの手で作った絹の衣です。姉の姫から、『お見苦しい品ではございますが、この衣を父上に差し上げます。どうかお情けにお受け取りになってお召しください』と、父上への伝言がある品ですが、父上はもはやこの世においでにならないのですから、相弟子様に差し上げます。お見苦しい品ではございますが、相弟子様の御情けに、どうぞお受け取りになってお召しください」と仰って、相弟子様に差し上げました。石童丸はこの方を父上の相弟子様と思ってはいますが、姉の千代鶴姫の志は、父上の手に渡ったのでございます。
 ああお気の毒な石童丸様、涙を流されていましたが、ああそうだ思い付いた、この卒塔婆を抜いて麓へ担いで行き、は笛様にこの卒塔婆をお見せしようと、卒塔婆を抜いて担いでいこうとするところを。父の苅萱殿はその独り言をお聞きになり、あの子はなんと賢いことか、卒塔婆を抜いて麓へ持って行かれたら、奥方がこれを見て、『それはそなたの父の苅萱殿の卒塔婆ではない。生前に後世を祈る卒塔婆じゃ』と言われたら、今まで隠しておいたことが全部水の泡となるとお思いになり、重ねて偽りを仰います。「これこれ、もし、筑紫の幼い人、この山で建てた卒塔婆というものは、仏様と同じ台座に建てたのものであるのだよゃ。その卒塔婆を抜いて麓へ下ろす時は、もとの卒塔婆はずいと引き抜かれたと同じで仏様の縁が切れてしまう。どうしても風呂都へ持って行く卒塔婆がほしいのなら、私の所へおいでなさい、卒塔婆を書いて差し上げよう、お若い方」と仰いましたので、石童丸様はこのお言葉を聞いて、なるほどもっともとお思いになり、父の苅萱殿と一緒に、苅萱殿の蓮華坊へとお急ぎになりました。
 ああお気の毒に石童丸様は、今ここにお父上にお会いになっていらっしゃるのに、この方をお父上とはご存じありません。一方父上の苅萱殿は、ここにいるのが我が子石童丸とご存じになっていらっしゃいますが、自分が親であるとは名告られません。ああ気の毒な次第で、苅萱殿も、父であると名告りたいとはお思いになりあmすが、新黒谷でお立てになった誓文を破って一家一門先祖や未来に至るまでに当たる罰の恐ろしさに、石童丸様にそなたは我が子であるとは名告られません。この苦しい父苅萱殿のお心の内のつらさは、とてもお気の毒でございました。
 ここまでは、苅萱殿をめぐる物語で、ここでひとまず擱くとして、ここにまた、とてもお気の毒でありましたのは、麓で待っていらっしゃった奥方様がとてもひどいことになっていました。ああお可哀想に奥方様は、石童丸様がお出でかけになった二日間が待ちきれないで、風がそよそよと吹く音にも、妻戸がきりきりときしむ音にも、あれは石童丸が蹴って来た音か、連れ合いの苅萱殿からのお便りか、石童丸はまだ幼い者のことだから、ひょっとして山道に迷って、どのように山を出たらよいか分からずに迷っていてまだ帰れないのであろうか、悲しいことよ。または父に尋ね会って、恋しいゆかしいとあれこれを語り続けて、父と離れる折を失って、まだ山の仲にいることか、悲しいことよとお思いになっていらっしゃいます。「これこれもうし、与次郎様、さて、私はもう今日限りの命と思えます。私が亡くなりましたなら、身に黄金を付けていますので、それを与次郎様に差し上げます。私を埋葬してくださいませ。それにつけても会いたい見たい、我が子石堂丸よのう。さて、今日の内に、夫についての頼りは聞けなくても、せめてもう一度石堂丸に会いたいものよ」と、恋しい恋しいと仰います。その恋しさが溜まってしまったのでしょうか、または、寿命が尽きたのでしょうか、惜しまれるのはまだ若いお年で、ご年齢を数えれば、明けて三十一歳という年に、朝の露とはかなくなられてしまいました。このお気の毒さはこの上なく、何に譬えることもできません。
 与次殿は奥方の嘆きと最期を見て、あのように子を思う親を持ちながら、親の心を考えず、山から下ってこない子の心の悪さよ、明日になったなら、急いでお山へと上り、あの子を尋ねようと思って、早朝に空が白むと、この宿の与次殿は身支度をして、お山を指して上りました。

 

説経かるかや 4 福福亭とん平の意訳

かるかや 4

 予次殿はこの奥方様の言葉に、「もうしもうし、旅の奥様、あなた様はこの高野のお山の厳しい禁制をご存じでそう仰せなのですか。ご存じなくて仰っておいでのようですね。そもそもこの高野の雄山は、都を離れること四百里の場所で、女人は決して上ることのできないお山なのですよ、旅の奥様」と申し上げると、奥方様はこの答えに、「それでは、この子石童丸の父重氏殿はこのお山においでなのはこれだはっきりしました。重氏殿は、万一、国元からこのような者が尋ねて来たならば、麓で決して山に上るなとあれこれと言い募って、我々を上らせないようにしてほしいとお頼みになったのであるな。この山を拓いた弘法大師も、木の股や萱の中から生まれ出た出た方でもありますまい。弘法大師も、汚れある女人の腹からお生まれになったのですよ。これこれもうし、予次様よ、私はこの山の弘法大師と七日七夜続けて問答をしても、決して負けることはありませぬ。こう旅先でこちらに宿を取るのは、あなたと親子の親しい仲とも思い、また主とも思って、深く便りになる方と思って宿をお頼みしたのに、何と言うこと、こんな頼りにならない所を宿にするよりは、さあ、石童丸よ参れ、今からお山へ上ろうではないか」と仰いました。
 与次殿はこの奥方様の言葉に、このままこの方を山に上らせれば山の厳しいご禁制に背いてしまう、上らさなければこの旅の女性のお気持ちに逆らうことになると思い、「奥方様にどのようにお話申したらよかろう、弘法大師にまつわる高野の巻とか申す物語を、ほのかに聞いておりますので、、あらましのことをお話申し上げましょう。
 弘法大師の母上と申し上げるお方は、この日本国のお生まれではございません。そのお生まれになられた国と言うのは、大唐国中央の帝の娘御としてお生まれになり、他国の帝に縁付かれましたが、世にまたとない醜いお顔立ちでいらっしゃったので、不縁となって父御の元へ送り返されました。父の帝はこのできごとをお聞きになって、大木を刳り抜いた舟に閉じ込めて、西の海へと尾長氏になりました。その舟は日本に向かって流れ寄って、四国讃岐の国白方の屏風が浦に住む、とうしん太夫と言う漁師が、唐と日本の潮目の境のちくらが沖という場所で舟を拾い上げ、舟の蓋を開いて見ると、この上無い醜い女がいました。この女子が、とうしん太夫の養子になったとも、または下使いの下女としてお使いになったとも申しますが、そのお名前をあこう御前と申します。
 あこう御前は、嫁入りに適した年頃にはならまして、あちこちの山で霞の掛からない山はないように、女子の身と生まれて男から妻にと思いを寄せられない女子もいないのに、私にはいまだに誰からも妻として求められる声が掛からない、それならば、この世を照らす天道に願いを掛けて子を授かろうとお思いになって、家の上に一尺二寸高さの足駄を履いて、三斗三升入る桶に水を入れて頭の上に差し上げて、この夜の月に願いをすれば叶うという二十三夜の月の出をお待ちになりました。その時の夢に、西の海から、黄金の魚があこう御前の胎内に入るとご覧になりました。世間一般の女の人は、身籠もって十か月目になると子をお産みなさると聞いておりますが、あこう御前は三十三か月目になってお子をお産みになりました。生まれた子は、玉を磨き、瑠璃で出来たような美しい男のお子さんでした。では名を付けようと、お子を授かった夢に因んで、金魚丸とお付けになりました。
 このお子さんはもともと人間の種ではありませんので、お母様の胎内にいらした時からお経をお読みになっていました。屏風が浦の人たちは、「とうしん太夫の家に使われている、あこうが産んだ子はずいぶん夜泣きをするよ。夜泣きをする子がいると、七浦七里までが荒れ果てるよ言うことだ。その子を捨ててしまわないと、とうしん太夫諸共に、この浦の平安が守れないであろう」と評判して、子を捨てよとの使者が立ちまして、あこう御前はこのことをお聞きになって、この子一人を得ようとして、ずいぶん色々な苦労や努力をしてきたのだ、金魚よ、私はそなたを決して捨てはしないぞと決心なさって、金魚を連れてとうしん太夫の元を出て、各所を迷い歩かれました。その場所の数は八十八所と伺っております。ですから、四国の巡拝の地は八十八か所と申すのでございます。
 その遍歴の時に母のあこう御前は、「これ、金魚、よくお聞き。夜泣きをするだけでもうるさいのに、長泣きまで始めたのか。昔から今に至るまで、自分の身を捨てる藪はなくても、我が子を捨てる藪はあると聞いている」と仰いました。そこであこう御前は我が子金魚様をお捨てになられまして、その折に、和泉の国槙の尾の花(か)蘭(らん)和尚という方が讃岐の国の志度の道場で、七日間の説法をなさっておいででした。この道場へあこう御前もお参りになってこの説法を聞きにお通いになっていて、説法が終わって他の人は帰って行きましたが、あこう御前はお帰りになりません。花蘭和尚様はその時に、枝の下がった松の下で何か音がするのでお聞きになると、お経の声がしています。花蘭和尚様がその場所を掘り起こしてご覧になると、玉で出来たような男の子がいました。花蘭和尚様はこの子をご覧になって、これは不思議なことだとお思いになられ、同時にあこう御前が手をすり足をばたばたとして、涙をたくさん流して泣いているのをご覧になって、『これこれ、そこにいる女子よ、何を嘆いているのじゃ』とお尋ねになりました。あこう御前はこのお言葉に、『私はたまたま子を一人授かりましたが、夜泣きを注意する者がやって来ましたのでいたたまれず、ここの下がり松の下に埋めたのでございますが、昨日までは鳴き声がしていました、今日は死んだものやら、声がしませんので悲しくて泣いております』とお答えしました。花蘭和尚はお聞きになり、『それはこの子のことか』と仰って、子をあこう御前にお渡しになりました。あこう御前は嬉しく思いました。『ここで確かにこの子の母親に言い聞かせよう。この子が泣いているのは夜泣きではなくて、お経を唱えているのじゃよ』とお説きになって、それから槙の尾を指してお帰りになりました。
 あこう御前はこの子金魚が七歳になった時に、金魚を連れて、和泉の国槙の尾へと参上しました。いずれも尊い仏性をお持ちの二人の間でございますから、槙の尾の花蘭和尚はすぐお会いになって、金魚を連れて御室の御所へとお移りになりました。何と言っても、金魚は仏の素質を持っていますので、師匠が一字をお教えになられると、十字をお悟りになるのです。学問で不明なことはおありにならず、成長して十六歳という年に、髪を剃って出家され、その名を空海と名告られました。
 空海様は二十七歳という年に、唐に渡ろうとお思いになり、筑紫の国宇佐八幡にお籠りになって、八幡様の御神体を拝みたいと念じると、十五、六歳の美しい女性として現れました。空海様はこの姿をご覧になって、『そのお姿は拙僧の心を試そうとしてのものですか』と仰って、『とにかくご神体をお見せください』と仰います。今度は眷属を率いて仏道の妨げをする第六天の魔王の姿で現れました。『それは魔王の姿である。とにかく御神体を現されよ』と求められると、神社の壇が震動して雷鳴が響き渡り、火炎が燃えて、その奥に『南無阿弥陀仏』の六字の名号を拝むことができました。空海様は『これこそが宇佐八幡の御神体じゃ』と悟って、唐へ行く船の船縁に渡した板にその六字を彫りつけましたので、それを船板の名号と申します。それから空海様は大陸の唐にお渡りになって、七人の帝にご挨拶をされ、その浄土教の善導和尚にお会いになりまして、『では、官位を与えよう』ということで、弘法となられました。
 弘法様は、ここまで来たならば天竺へ渡ろうとお思いになり、天竺流沙川を渡ってお進みになると、大聖文殊菩薩はこの様子をご覧になって、『日本国の空海よ、何をしようとしてここまで来たのだ』と問い掛けられます。空海様はこの言葉に、『文殊菩薩の浄土へ参る』と答えます。文殊菩薩童子の姿になって、『どうじゃ空海、この川に渡る便宜はないぞ。そこから帰れ』と仰います。空海様はこれに、『川という川で、渡れないところとは決してない、必ず渡れる』と答えられます。重ねて、『小国の空海よ、そこから帰れ』と言います。空海様はこれに対して、『そもそも天竺は、小さな星を象徴する国なので、震旦国と名付ける。大唐の国は、月を象徴する国なので、月氏国と名付ける。日本は小国ではあっても、太陽を象徴する国なので、日域と言うのである。最も知恵の優れた国である』とお答えになります。童子姿の文殊菩薩はこれをお聞きになり、『空海よ、字をどれほど書けるか』とお尋ねになります。。空海様はお聞きに鳴り、『まず童子から書け』とお命じになります。文殊菩薩は、『では書いて見せよう』と仰って、飛び行く雲に『阿毘羅吽欠』という文字をしっかりとお書きになりました。雲の動きは速いものでしたが、字は少しも乱れていません。空海様はこの文字をご覧になって、「ああ、見事に書いた童子じゃなあ。今度は我が書いて見せよう」と仰って、流れている水に『龍』という文字をお書きになります。童子姿の文殊菩薩はこの字をご覧になって、『あの字は、点を打って始めて龍と読めるものだが、龍には点が足りない』ときっぱりと仰います。空海様はこの言葉に、『あの字に点を打つのは簡単なことではあるが、点を打てば必ず急な大事変が起きるのである』とお答えになります。文殊菩薩はこの答えをお聞きになり、『大事が起きても構いますぬ。とにかく点をお打ちなさい』と仰います。空海様は、『では、点を打ってみせもしょう』と仰って点をお打ちになりますと、川の上にある龍の眼のところに筆が当たり、その眼から出た涙が急な洪水になって、空海様も五、六丁ほど流されました。童子姿の文殊菩薩はこの姿をご覧になって、『それ、何とかせよ、空海』と仰ると、空海様は石を呼ぶ印を結んで、川上へとお投げになると、印は五尺ほどの大石となって川を塞き止め、あとは何も無く鎮まりました。
 文殊菩薩はこの様子をご覧になって、乗った獅子に鞭を打って、文殊の浄土である五台山へとお戻りになりました。空海様はこの後に随って、文殊菩薩の浄土へとお参りしました。文殊菩薩空海様のお姿をご覧になって、三十三尋の黄金の卒塔婆を取り出して、『この卒塔婆に文字を書きなさい。我が弟子よ』とお命じになります。この文殊菩薩のお弟子に智計和尚という人がいましたが、この人が自分が書こうと思って卒塔婆の上に乗って書き始めます。空海様はこれはいけない、止めようとお思いになられ、『私の国はとるにたりない小さい国ではありますが、牛や馬に乗ることはいたしますが、供養する卒塔婆に乗ったのは初めて見ました。これはいけない』と仰いました。この言葉に、智計和尚はとても腹を立てて、『そなたの姿を見ると、背は低くて色が黒くて、とても文字の良し悪しが言える姿ではない』と言います。空海様はこの言葉に対して、日本の法を引いてお説きになります。『漆は黒いと言っても、すべての家具に使われるものである。針は小さいとは言っても、あらゆる衣裳を縫うものである。筆は小さいと言っても、どんな書でも書けるものである。だから、それと同じように、たとえ背が低くて色が黒くても、文字の良し悪しについての場に加わることができるのである』ときっぱりと仰いました。
 文殊菩薩はこの空海様のお言葉をお聞きになり、『空海、そなたが書きなさい』とお命じになりました。空海様は『では、私が書いてお目に掛けよう』と言って、三十三尋の黄金の卒塔婆を取り出して、仏の力を集め、満ちたところでその手で卒塔婆を押し立てて、よく手になじむ筆に墨を含ませて、卒塔婆の先端側へと投げ上げると、筆は窟を自在に駆ける獅子の毛でありますので、すらすらと文字を書き記して、空海様の手に戻りました。文殊菩薩はこの光景をご覧になって、「よくまあ見事に書いたものだが空海よ、一字足りない」と決めつけました。空海様はお聞きになって、、「それでは書いてお目に駆けましょう』として、阿字十方三千仏、有(う)一切諸仏、陀字八万諸聖経、皆是阿弥陀仏と念じて、一字を加えると、筆は獅子の毛であります簿で、卒塔婆を上って、再び硯箱の中へと戻りました。『これからは官名を名告るようにせよ』との仰せで、大聖文殊菩薩の『大』の字を戴いて、空海様は弘法大師と名告られました。
 その後、文殊菩薩空海様に授けようとなさって、独鈷・三鈷・鈴の三つの宝物を箒に縄を付けその結び目の中に納めて庭をお掃きになられました。空海様は文殊菩薩からこの箒を受け取って、仏法の我が師がお与えくださった箒として、自分が使う箒として手元に掛けておきますと、縄の三つの結び目から金色の光が射しました。空海様がこの結び目を切り開いてご覧になると、独鈷・三鈷・鈴の三つの宝物がそこにありました。空海様はこの宝物に、『そなたたち、日本の土地で巡り会おうぞ』と仰って、文殊菩薩の浄土から日本の地へとお投げになると、独鈷は都の東寺に納まって、女人高野と拝まれるようになりました。鈴は讃岐の国のれいせん寺に納まって、西の高野と拝まれるようになりました。三鈷は高野の山の松に掛かって納まり、この松を三鈷の松と拝まれるようになりました。その後、空海様はこの地で知恵競べ、筆跡競べをなさって、我が国ヘとお戻りになりました。
 これまでは弘法大師様の物語でしたが、一方、大師様のお母上は、この時八十三歳におなりでしたが、大師様に会おうとして、高野山を指してお上りになりましたが、山全体が急に雲に閉ざされて、大地が震動して稲光がして雷鳴が轟きました。大師様はその時、どのような女性がこの山を目指して来ているのか、麓に下りて見てこようとお思いになって出て行かれると、矢立の杉という場所に、八十歳ほどの尼が大地にめり込んでいました。大師様はこれをご覧になって、『どちらのどういう女性ですか』とお尋ねになりました。大師様の母上はこのお言葉に、『私は、讃岐多度の郡、白方の屏風が浦の、とうしん太夫という者の屋敷に住む、あこうという者ですが、わが子がこの山に新たな出家者としておりまして、この者と延暦八年六月六日に別れて以来、今日まで対面することがありませんので、私は、我が子があまりに恋しいために、ここまで尋ねて参りました』と答えました。
 大師様は手を打って、『この私こそが、昔の新たな出家者の弘法でございます。ここまでこの山に御ぼりになられたのはご立派なことですが、この高野のお山というお山は、空を飛ぶ鳥、地を走る獣までも、男子は入ることを許しますが、女子は全く入れること許さない山なのでございます」と申し上げると、母上はそのお言葉に、『我が子がそこにいる山へ上れないとは腹が立つことじゃ』と仰って、傍にある石を捻られたので、その石を捻じ石と申します。そこへ火の雨が降って来たので、大師様が岩の下に母上をお隠ししたので、その岩を隠し岩と申します。母上は、『どんなに偉い大師の者であるとしても、父が種を授け、母がそれを胎内に受けて生んでこの世に生まれたからこそ、世の人々を導く末世の師となるのではないか。この世にたった一人しかない母に対し、急いで我が寺ヘ上れとではなく、里に下れと言うのは情けないことよ』仰って、涙を流されました。
 大師様はその時に、『私は親不孝で申し上げているのではございません』と仰いました。そこで身に着けていた七条の袈裟を脱いで岩の上に広げられて、『この上にお乗りください』と仰せになりました。母上は、尊い袈裟ではあるものの、我が子の袈裟であれば、何の障りもないものよと、ずかずかとその上にお乗りになりますと、四十一歳の時に止まった月の障りが、八十三歳という年なのに、芥子粒となって落ちてきまして、下にあった袈裟は激しい炎となって燃え上がり、点へと上がって行きました。
 その後大師様は、この高野のお山で、現在・過去・未来の三世の諸仏をお招きして、金剛界胎蔵界曼荼羅を作って、七七、四十九日の法事をいたしますと、大師様の母上は、煩悩のある人間界を離れて、弥勒菩薩とお成りになりました。この菩薩様は奥の院から百八十丁下の麓、慈尊院のお寺にお祀りされ、官省符村という免税特権のある二十か村の氏神としてお祀りされています。毎年九月二十九日がお参りの日とされています。
 このように大師様の母上でさえお上りできないこの高野のお山に、昨日や今日の俄発心者の身として、上ろうというのはとんでもないことです」と、与次殿はこの様に話しました。「こうお話をしましたからには、お山にお上りになろうとなるまいと、この上は奥方様のお心次第です」と言いました。

説経かるかや 3 福福亭とん平の意訳

かるかや 3

 ああ、なんとも申しようがございませんが、苅萱殿は高野山へとお着きになり、そこで谷川の水を汲んでは、花を摘んで香を供えて朝夕に念仏を唱えて、仏道に打ち込んでいらっしゃいました。
 ここまでは苅萱道心殿の物語でしたが、これはさておき、ここにまた、哀れを究めたのは、苅萱こと重氏殿のお国元にいらっしゃった奥様で、とてもお気の毒でございました。お話は五年前に遡ります。さて、重氏殿の出奔の夜のことでございますが、お気の毒なことに、奥方様は、重氏殿のお居間においでになって、座敷の襖をさらりと開けて、「重氏殿はおいででしょうか」とお声をかけられますと、重氏殿はおいでがなく、旅仕度をなされた跡だけがありました。
奥様はこの様子をご覧になって、なんと妙なこと、夫重氏殿は今夜の闇に紛れてこの屋敷をお出掛けなされたよな。私がほんの少しでもこのお心を知っていたならば、たとえどこか、どのような地の果てであっても、御一緒に参りますものを、残念なとお思いになり、持仏堂の様子をご覧になると、重氏殿がいつも肌身離さずお持ちになっていた刀と常用の籐の枕に、置き手紙が畳まれてあるのを見て、何の思いもなくすぐさま取り上げて、さっと開いてご覧になりました。
 手紙には、まず一番最初の書き出しに、「そなたの胎内の七か月半の子が生まれて、その子が男であるならば、石童丸と名付けて出家をさせてほしい、また、女の子であるならば、その子の行く末は、どのようにも妻であるそなたに任せる」とありました。「そなたと我とのこの世での縁は薄いけれども、来世では必ず会うことを約束する」と、こt細かく書き留めてあります。奥様は、ああ、私は、この重氏殿の手紙を見るにつけてもとても悲しいこと、いっそのこと、海へも川へも身を投げて死んでしまおうと身悶えしてお泣きになりました。この時、奥様のお側仕えのからかみのお局という女房が奥様に抱き付いて、「これこれ申し奥様、あなた様のように胎内にお子を抱えたままの姿で亡くなられると、救われることのない阿鼻地獄、無間地獄の苦しみの中に沈んで、決して浮かび上がることのできない身となると伺っておりまする。無事に御出産遊ばされたならば、夫の重氏殿の行方をお捜しになろうとも、または海に身を投げてしまおうとも、それはあなた様のお気持ち次第でありなすから、この度の御自害は思い止まってくださいませ、奥様」と申し上げるましたので、奥様は御自害を思い止まられました。
 間もなく妊娠十月となった日の暮れ方に、奥様は無事御安産なさいました。女房たちが集まってお産のお手伝いをして、赤子を抱き取りました。奥様は、「産まれた子は、男か女か」とお尋ねになります。女房たちは「まるで珠を磨き、瑠璃を延べたような美しい若君様でいらっしぃます」とお答え申し上げます。口中をきれに拭って、奥様にお渡ししますと、赤子は、左の手に、極楽浄土を表す安養の珠を握って誕生しました。女房たちが「早くお名前をお付けなさいませ」と促すと、奥様は「おお、それよ、忘れていました。父重氏殿の置き手紙に従って、名は石童丸と名付ける」と仰いました。この石童丸様には乳を与える乳母が六人、お世話をする傅きの人が六人、以上合わせて十二人の人たちが、石童丸様を大事に大事にお育てしました。
 時の過ぎるのは早いもので、石童丸様は、二歳三歳の時は早くも過ぎて、十三歳におなりになりました。
 ああ、お気の毒に、姉の千代鶴姫様は、外の花見へとお出掛けになりまして、一方、おかわいそうに、奥様と石童丸様は、南に向かったお部屋の縁の側へお座りになって、庭の花園を眺めていらっしゃいました。そこへどこからとも判りませんが、ひとつがいの燕が飛んで来て、花の咲いた枝に並んでとまったのを、石童丸様がご覧になって、「ねえ、お母様、あそこにいる鳥は何と言う鳥ですか」とお尋ねになりました。奥方様はこの問いかけに、「ああ、そのこと、あの鳥は、はるか常盤の国から二羽飛んで来た鳥で、その名を燕とも言いますし、またの名は耆婆とも言いますよ。雄の鳥がちちと囀り始めると、『法華経』の五の巻を囀って、とても素敵な鳥なの。あちらにいるのが父鳥、こちらにいるのが母鳥、間に十二並んでいるのは、それ、あの鳥たちの子どもの鳥よ」とお教えになりました。
 石童丸様はこのお答えをお聞きになり、、「さて、今日は不思議なことがございます。あのような鳥や獣たち、また地を這う動物たちまで、父、母と言って親を二人持つものなのに、どうして姉上の千代鶴姫と私には父と呼ぶ人がいないのですか。ひょっとして、侍としてよくあることで、誰かとの口論、馬競べ、笠を巡っての諍いに負けて亡くなられたのでしょうか、亡くなられたとしたら何時で、御命日は何月何日っでございますか、お母様」とお尋ねになりますと、奥方様はしのお言葉をお聞きになり、「ああ、そのことですか、そなたの父上が二十一歳、この母が十九歳、姉上千代鶴姫が三歳で、そなたは七月半で私の腹の中にいた時に、父上は花が嵐に散るのを見て、急に出家を思い立たれて、都で名の高い新黒谷で僧の形になって、その名を苅萱の道心と変えたと風の便りに聞いたので、私はとても夫の重氏殿が恋しくなったその時は、折々手紙をお送りするのですが、お送りする手紙は受け取りながら、全く返事をいただけないのだけれど、そなたの父上は、この世に生きていらっ書売るのです。石童丸よ」と仰せになりますと、石童丸様は、お聞きになって、「なんと嬉しいお言葉でしょう。さて、今日までは、父上はもうこの世においでではないと、ずっと思っていましたが、お父上は生きていらっしゃるのですね。お父上が生きていらっしゃるのでしたら、姉上の千代鶴姫と私に、少しの間お暇をください。お父上を尋ねて行ってお会いして参りまする。母上様」と仰いましたので、奥方様はこれをお聞きになり、「さて、そなたがそのようなかんがえであるならば、居間の話は、姉上千代鶴姫には決して知らせてはなりません、石童丸よ」と仰って。明日にしようとすると人に知られます。やだ今夜の暗い内に、そっと出掛けようとお思いになり、旅仕度をなさって、そっと屋敷を出ようとなさいましたが、親と子の縁なのでしょうか、両開きの妻戸がきいきいときしむ音が姉の千代鶴姫の耳に入り、千代鶴姫はこの音を聞いて、なんと妙なこと、今音のした妻戸は、お母様の方の妻戸だ。お母様が夜に度々お話をなされたのは、石童丸が成人をしたならば、一緒にお父上を探しに行こうということだったのだが、さては、今夜の内にこっそりとお出掛けなさったのであろうか、この私は、幼い頃にお父上に捨てられたとはいうものの、お母様にまでは捨てられたくはないと、急ぎ裸足で歩いて追い掛けましたら、親子の縁の深さでしょうか、五町の距離を追い掛けて追いつき、母の奥方様の袖に縋って、嘆きながら共につれて行ってほしいと願いを語ります。
 「これ申し母上様。私が違う母の子であるとか、違う父の子であるとかということで、なにか区別をなさるのですか。石童丸だけが、ね、お父様の子なのですか。そもそもここにいる私は、父上の子ではないのですか。石童丸がお父上を尋ねて出掛けるのならば、こう言う私も一緒にお父様を尋ねましょう、母上様」と訴えますと、母上様はこの言葉に、「ああそのことであるか、二人きょうだいで、母違い父違いの仲であるから二人を分け隔てするということではありませんよ、石童丸はそなたの弟で歳若いけれども、男の子なので道中の力にもなるのじゃ、また、そなたは年上の姉ではあるけれど、かよわい女の身であるから、道中の支えにはならないで、むしろ道中の足手まといになってしまうのじゃ。しかも、これから都へと上る道中は、人柄が悪くて、そなたのような美しい姫を捕まえて人買いに売ることがあると聞いている。そなたが売り飛ばされて人買いの手に渡るとなったなら、どう嘆いても取り返しが付かない長い悲しみになってしまうのではないか。そなたは一緒に行くということは思い止まって、この屋形の守りをしっかりとしてくだされ。父重氏殿に尋ね会ったならば、しっかりとお話をして納得していただいて、そなたに一度は会わせましょうよ、千代鶴姫よ」と仰いましたので、千代鶴隙はこれを聞いて、「ああ、なんとうらやましいことよ、石童丸よ。そなたは弟であっても男の子ということで、母上の道中の助けになるということじゃ。また、我が身は年長の姉であっても、女と生まれたのが口惜しいことじゃ。お父上を尋ねることができないのがとても残念じゃ。さてこうなると、お父上にお会いできる良い機会であるのだから、いったい何を母上に父上にお渡しくださいとお願いいたそうか、ああそうじゃ、すっかり忘れていた、父上のためにと思って、暖かい絹の衣を裁ち縫いしておいたのじゃ、これを父上にお渡ししていただこう。これこれ、石童丸よ、そなたが父上に尋ね会ったなら、『これは三歳で捨てられて、今年十五歳になる千代鶴姫が手縫いをした絹の衣でございます。お見苦しい品ではございますが、どうぞお許しの上お受け取りの上、お召しになってください』と言って、お父様に渡してくだされ。これこれ申し母上様、思い切ってお出掛けなさるのなら、お出掛けに障り無く万事うまく運んで、一日も早いお帰りをお待ちしております。早く戻っておいで、石童丸よ」と、別れの言葉を取り交わし、仮の別れとは見えましたが、これが、母と娘の親子、姉と弟のきょうだいの、長い別れになるのでございました。
 ああおいたわしいこと、奥方様は、日が暮れれば宿を取り、夜が開ければ旅歩きと道中をお急ぎになります。このようにお急ぎになられたところ、出発してから早くも五十二目という日に、花の都の東山にある新黒谷のお寺にお着きになりました。
 お気の毒な奥方様は、新黒谷の寺の門の脇に立ち寄って、石童丸に近づいて、「これこれ、石童丸よ、そなたの父上の苅萱殿が髪を剃って出家なさったお寺は、ここのお寺じゃぞ。本来なら私がこのお寺に入って行って自分で苅萱殿を探さなければいけないのだが、実は私は、筑紫の国で、旦那様が恋しくなった時々には、毎年のようにお手紙を差し上げたのだけれども、お送りする手紙はお受け取りになられても、ご返事のお手紙は一度も無かったのだから、もう私のことは思わず、二人の縁は切れたと思われます。一方、そなたは、血の繋がった親と子のことだからお会いくださることは間違い無い。さあ、早く門内に行って尋ねてきなさい、石童丸よ」と仰いましたので、石童丸様はこの母上の言葉に従って、急いで寺の門の中にお入りになりました。
 「お尋ねいたします、お上人様、さて、私は、生国と申しますと、これからはるか遠い大筑紫の片隅でございまして、細かく申し上げると筑紫の国、庄は苅萱の庄、我が家の父の名を申し上げれば重氏です。さて、私の父上が二十一歳、母上が十九歳の年でございました。姉の千代鶴姫は三歳でした。こうお話申し上げる私めは、まだ母の胎内で七か月半という時でしたが、父上は嵐に花が散るのをご覧になって、突然発心されて、このお寺で髪を剃って、その名は苅萱の道心となったと数の便りに聞いたのでございます。私は、父上が余りに恋しくて、ここまで尋ねて来たのでございます。父上のことをご存じでしたら、どうなさっているかお教えください、お上人様」と尋ねました。
 お上人様はこの言葉をお聞きになって、「ああ、そなたの父上のことでありますか。そなたの父の苅萱の道心は、この寺で髪を剃って、名を苅萱の道心と名告っておいでであったが、そなたの母上とそなたとが尋ねて来るという夢を見て、二度と対面するまい、顔も見るまい、言葉を交わすまいとしてのう、この寺から、女人が上ることのできない高野の山へとお上りにられたのじゃ、あちらをお尋ねなされ」とお答えになられて、お上人様も涙を流されました。
 ああ、お気の毒に、石童丸様は、お上人様においとまをして、急いでこの寺の門を出て、母上様のお傍にお座りになって、「これもうしお母様、実はお父上重氏殿は、このお寺で髪を剃って、お名前を苅萱の道心と名告られていらっしゃるとのことで、母上様と私が尋ねて来るとの夢をご覧になって、二度と対面するまい、顔も見るまい、言葉を交わすまいとお思いになられて、この寺から、女人が上ることのできない小屋の山へとお上りになられたとのことです。さてさて、高野の山とかいう山は、どちらにあるのでございますか、母上様」とお伝えすると、奥方様はこれをお聞きになって、「「そんなに嘆きなさるな、石童丸よ。そなたの言葉を聞くにつれて心が乱れるけれど、父上重氏殿さえ生きていらっしゃるならば、どんな野の端、山の果てででも、または湯や水の底まででも、必ず尋ね当ててそなたに会わせよう。もう出掛けよう、石童丸」と仰って、新黒谷を後にして、四条の橋を渡られて、「あれは五条の橋と聞いている。この旅で都の景色のすばらしい名所旧跡を見せてやりたいとは思うけれども、今回は我慢して、お父上に尋ね遇えたならば、その帰り道にゆっくり見ようではないか」と仰って、石清水八幡のお山にお参りしなさいますが、このお社の神様の本地は、阿弥陀様でいらっしゃいます。夢の端と思いながら、都を離れられて、奥方様は、河内の交野を通る時、狩猟を禁じられた禁野の雉は子を大切にするのに、我が夫の重氏殿は、我が子のことを少しも思わないというのは悲しいことよと、心の中にそっと恨みを抱きながら、さらに道をお急ぎになると、三日三晩のうちに、早くも高野山の麓三里のところにある学文路の宿にお着きになりました。
 ああ、お可哀想な石童丸様は、奥方様が、「どこの場所で良いから探して、宿を取っておくれ」と仰られるのをお聞きになって宿を探し、「お宿は、玉屋という大きな家になります」とお答えになりました。
 おつかれになった奥方様は、玉屋という家にお着きになられ、宿の主の与次殿をお呼びになって、「これもうし、予次様、ここから高野のお山へは、道中何里ありますか」とお尋ねになりました。予次殿は、このお尋ねに、「坂道は三里あるのでございますが、それは険しい道でございますよ」とお答えします。奥方様はこの答えに、「道が険しくても、険しくなくても、明日は早くに山に登って、この石童丸を父重氏殿にお引き合わせできることの嬉しさよ」と仰いました。

説経かるかや 2 福福亭とん平の意訳

かるかや 2

 ああお気の毒なる重氏殿は、新黒谷にお着きになりましたが、上下さまざまな身分の方がお参りになって混雑しているその中を、雑踏をかき分け、お堂の正面にお参りにおいでになって、「これ申しお上人様、お願いですが、私に仏縁を結んでくださいませ。その縁を確かにいただいてから、髪を剃り、出家の身となさってくださいませ、お上人様」と申し上げますと、お上人様はこれをお聞きになって「お前様のような若い侍が、この寺で紙を剃って、出家を全うした者は一人もいない。そもそも、この寺では出家遁世を志す者は立ち入り禁止なのだ」との仰せになりました。
 重氏殿はこのお上人の言葉をお聞きになり、「ああ、つれないお上人様、そもそも私が国元で伺っているところでは、都は、洛中洛外といってとても広い土地で、そのような広い都の中にあるお寺では、その門前を通る何の信仰心もない人を摑まえて髪を剃って、出家にして世に送り出すのが、お寺の上人様の優れた働きであると伺っておりますが、いかがでございましょう、お上人様」と申し上げると、お上人様はこの重氏殿の言葉をお聞きになり、「これこれ、お若い方、確かに都は洛中洛外と言われるとおり広い所ではあるが、この広い都へ出てくる覚悟の人ならば、国元で親子の絆、その他諸々の絆を断ち切ったり、また、親から勘当を受け、または主からお叱りを蒙った人々が、高野や比叡のお山に上って籠もって、宵には髪を剃って出家をし、夜が明ければ元の身へと還俗をなる習いである。そのように出家をしてすぐさまその戒を破る者がいる時は、髪を剃った僧もその者も、このように語っている私でさえも、二度と救われることのない、阿鼻地獄や無間地獄の底へと沈むのであるよ。それだから、私はそなたの髪を剃るまいと言っているのじゃ。真実髪を剃って出家したいというのであれば、五日も十日もそこに控えていなされ。国元から誰もそなたを尋ねて来ないのならば、その時にわしが髪を剃って出家にして差し上げよう、のうお若い方」と仰いました。重氏殿はこのお上人のお言葉をお聞きになり、「いや、それならば、ここではっきりと申し上げましょう。さて、この私という者は、国を申し上げると大筑紫筑前の者でございまして、国元には親はもはや無く、また子も持っておりませんので、私を尋ねて来る者はございません。お上人様」と申し上げますと、お上人様はこの重氏殿の言葉をお聞きになり、「さあ、そういう事情であるとしても、五日も十日もそこでそのままいなされ。その上で髪を剃って差し上げよう」とお答えになります。重氏殿はこのお上人のお言葉に、「これはつれないお上人様のお言葉じゃ」と仰って、寺の内から立ち去って、門柱の下の敷石を枕として、そのまま門前に横になって寝ました。
 都の修行者はこの重氏殿の姿を見て、「さてさて、ここに寝ている若侍は、昨日もここにおいでだったが、今日もまたここにおいでじゃ。どんな願いが叶えたいのかな、お若い方」と言いますので、重氏殿はこのこれをお聞きになって、「都の修行者様でいらっしゃいますか。こう申す私という者は、故郷を申し上げると、この都よりもはるかに草深い筑紫の国の者でございますが、『このお寺で髪を剃って、出家にしてください』とお上人様に丁寧にお願いを申し上げたのですが、髪は剃っていただけず、もはやこの世には神も仏も無いものなのでしょうか。いっそのこと、殺してくださいませんか」と、修行者に語りました。都の修行者はこの言葉に、「これこれ、そこのお若い方、この寺を申すのは、一日に千人万人のお参りの人々が参られるが、その人々の中に、あなたのように一筋に遁世の思いを籠めている方は他に一人もないでしょう。こちらへおいでください」と、重氏殿をお上人様の所へと伴って、お上人様の御座近くへと来て、「もし、お上人様、あの若侍のようにただ一筋に遁世を願う者の髪を剃っておやりください。お上人様」と申し上げると、お上人様はお聞きになり、「まだ、その若い侍は、まだそこにおいでなのか。昨日私が申した通りに、そなたの髪を剃らないということはいたさぬ。そなたの髪を剃らないということは止めにしよう。そなたが心から髪を剃っての出家を望むのならば、『たとえ国元から親が尋ねてきても、子が尋ねて来ても、対面はしない、顔を見ることもしない、言葉を交わすことも一切しない、二度と会うことはいたすまい、万一会って名告りをするならば、深い無間地獄の闇の底に沈んで、二度と浮かび上がることのない身になろう』という強い誓いを立てなされ。その誓文を聞いた上で、そなたの髪を剃って進ぜよう、若い侍よ」と仰いましたので、重氏殿は、これをお聞きになって、「さてさて、ここの若侍は」と仰るお上人様の言葉が終わらないうちに、「なんとも情けないお上人様のお考えでございますね。そのようなお考えをお持ちでしたなら、昨日私が願ったときに仰せられれば、その場で誓文を立てますものでしたのに。それはともかく、たった今に髪をお剃りださることが嬉しゅうございます」と申して、重氏殿はすぐさま、うがいをして身を清めて、お上人様の御前で、「そもそも私が筑紫の国元で朝夕拝み申し上げるのは、あしての勧請で、この筑紫の国が何事も無く平穏であるようにお守りくださいと朝夕拝んでおります。それ以外にこの重氏は髪や仏にそれ以外のお参りをしたことはありませんが、今ここで誓文としてお誓い申し上げます。
『そもそも上は梵天帝釈、下は四大天王、閻魔法王、五道の冥官、なんかい、下界の地には、伊勢神明天照皇大神宮、下宮が四十末社、内宮が八十末社、両宮合はせ百弐十末社の御神を勧請し、驚かし奉る。忝くも熊野には大小三つの御山、新宮、本宮、那智は飛滝権現、神の倉は竜蔵権現、滝本に千手観音、天のくまの弁才天、吉野にさはらの権現、子守、勝手の大明神、多武の峰は大織冠の、初瀬は十一面観音、三輪の明神、竜田の明神、布留は六社の大明神、大(おほ)大和には鏡作の大明神、奈良には七堂の大伽藍、春日は四社の大明神、天だいに牛頭の天王、祇園は八大天王三社の御神、吉田は四社の大明神、今宮三社、松の尾七社の大明神、北野は南無天満大自在天神、高きお山に地蔵権現、麓に三国一の釈迦如来、鞍馬に毘沙門、貴船の明神、賀茂の明神、賀茂の御手洗(みたらし)、比叡の山に中堂薬師、伝教大師、打下に(うちおろし)は白髭の大明神、湖(うみ)の上に竹生島弁才天、美濃の国にながゑの天神、尾張に津島、熱田の明神、坂東の国に鹿島、香取、浮州(うきす)の明神、出羽の国に羽黒の権現、駿河の国に富士の権現、越後に弥彦、佐渡でほく山、越中立山、加賀で白山、敷地の天神、能登の国に石動の大明神、信濃の国に戸隠の明神、諏訪の明神、越前で五両、五十八社の御神、若狭に小浜の八幡、丹後に切戸の文殊丹波大原八王子、津の国にふり神の天神、河内の国に恩地、枚(ひろ)岡(おか)、誉田の八幡、天王寺聖徳太子、住吉四社の大明神、堺に三の村、大鳥五社の大明神、淡路島に諭鶴羽(いづりは)の権現、淡島権現、備中に吉備津宮、備後にも吉備津宮、備前にも吉備津宮、三ケ国の守護神を勧請し驚かし奉る、忝くも伯耆には大山地蔵権現、筑紫の地に入りては、宇佐羅漢寺、四こ、くのほてん鵜戸、霧島に、志賀、宰ほつ、伊予の国に一勺、五大三の、たけの宮の大明神、総じて神の数が九万八千、仏の数が一万三千四ねん仏、神の父は佐陀の明神、神の母は田中の御前、岩に梵天、木に樹神(こだま)、屋の内に地神荒神、三方荒神、み荒神、土居の竈、(へつつい)七十二社の宅(やけ)の御神に至るまで悉く』の神仏に、誓文としてお誓い申し上げ、こうお誓い申し上げた上は、親が尋ねてきたとしても、子が尋ねてきたとしても、決して会いますまい、言葉を交わしますまい、二度と会うことはいたしますまい。もしも再び親や子に会って言葉を交わすものならば、その罰は、我が身の上は言うまでもなく、我が一家一門も、六親眷属も、さらに七代の父母の身の上に至るまで蒙ることを、すべてこの誓文にお立て申し上げます。この誓いを立てた上で、髪を剃ることに全く未練はございませぬ」と、きっぱりと重大な誓文を申し上げた決心の姿は、はたで見ても、身の毛もよだつばかりのお姿でした。
 お上人様はこの重氏殿の誓文をお聞きになり、「出家の望みは遂げさせよう、お若い方、こちらへおいでなされ」と、きれいに磨かれた半挿に湯を入れて、熱湯にぬるい湯を混ぜ合わせて重氏殿の俗世の欲や迷いの心を洗い流させて、額に天台の教えの剃刀を二三度押し当てながら中道実相沙門界おいう分を唱えて、さらにに三度剃刀を当てて、重氏殿の髪を四方浄土へも届けと剃り落とし果て、髪を剃り終わっての僧の名として、もともと苅萱の庄の人であるので、苅萱の道心と授けました。
 こうして出家を遂げた苅萱道心殿は、仏前へと谷間の水を汲み、花を摘んで香を供えて念仏を口にして、仏道修行に打ち込んで日々を過ごしました。
 ここまでは重氏殿が出家を遂げた物語でありますが、その後、苅萱殿は、つい先頃出家を遂げたと思えましたが、早くも時移ってこのお寺で五年のお勤めの月日が流れ、この五年目の正月の初夢に、おいたわしくも悪い夢を見たと言って、お上人様のお居間に参上して、夢の話と懺悔の物語をなさいました。
 「もし、何と申し上げましょうか、お上人様。以前私が、『このお寺に長くお世話になって、出家の道を遂げたいのです』とお上人様にお願い申し上げたその時に、『国元に親は無く、子も無く、尋ねて来る者はございません」と申し上げましたが、実は、その時国元に捨ててきた妻は十九歳でございました。そしてその時私めは二十一歳、娘は千代鶴と申して三歳になるのがおりまして、さらに妻の胎内には懐胎七月半の子がおりましたのを捨てて参ったのでございますが、夢にその子が生まれて成長して、母親と一緒にこの寺ヘと尋ねて参りました。そして、私の衣の袖に縋り付いて、泣き口説いていると見まして、このように夢にでも、夢であっても、心乱れてつらく苦しいものでありますのに、もしもこの夢が正夢にあるならば、この私はどうなるものでございましょう。そこで私は、これから、女人が登ることのできない高野の山へと登ろうと存じます。おいとまをくださいませ、お上人様」と仰いました。
 お上人様は苅萱殿のこの言葉をお聞きになり、「情けないことよ、苅萱よ。高野の山へと言うのは噓で、国元へ帰ると見えるぞよ」とお答えになります。苅萱殿はこのお上人様のお言葉に、「情けないお上人様のお考えでございます。そもそも人の心はほんの少しの言葉の端で知れると申しますが、私もこのお寺にお世話になっとのが、ついこの間と申しますが、もはや五年のお勤めを果たしましたぞ。高野へ登るという言葉に噓偽りの無いことは、この五年の間という時に、深く学問を果たしたとは申せませんが、朝夕しっかりと伺った御経にお誓い申し上げまする。信じてください。お上人様」とお答えしました。
 その時に苅萱殿は、うがいで身を清めて、お上人様の御前で、数珠をさらさらと押し揉んで、「『そもそも御経の数は、華厳に阿含、方等、般若、法華、涅槃に、並びに五部の大御経、観音経にすい御経、薬師御経に弥陀御経、こくみにこ経を尽くされたり。万の罪の滅する御経は、血盆経かさては浄土の三部御経か、俱舎の御経が三十巻、ふんすい御経が十四巻、天台が六十巻、大般若が六百巻、並びに弘法の教えの御経。法華経は一部八巻、文字の並びが六万九千三百八十四字に記されたり。総じて御経のその数、七千余巻に積もられたり。』八万諸聖経に誓って、噓偽りがあるならば、この経文の神罰を受けるものです。私は故郷へとは下るこてゃなく、高野の山へ登ります。お暇をくだしませ、お上人様」と改めて誓文を唱えました。
 お上人様はこの苅萱殿の誓文をお聞きになり、「なんと一途な心を持っている苅萱じゃな。そなたがそのような気持ちを持って持っているのであれば、今すぐここから出る許しを与えよう。高野山へ行っても心が落ち着かなければ、再びこの寺へと参って、しっかりと来世往生を願いなされ。苅萱よ、それでよろしいか」とお仰せになりましたので、苅萱殿はこのお上人様の言葉を聞いて、新黒谷の寺を身一つで出発して、それから三日目の夜になって、高野山の入口である学文路にお着きになりました。さらに苅萱殿が足を早めますと、すれから程なく、高野山でえ名の高い蓮華坊へとお着きになりました。

説経かるかや 1 福福亭とん平の意訳

かるかや 1

 これから語ります物語は、信濃の国善光寺の奥の御堂に、親子地蔵とお姿を顕されているお地蔵様の由来を詳しく説いてお聞かせ申すと、このお二人もかつては人間でございました。この主人公は、国は大九州筑前の国、苅萱の庄の加藤左衛門重氏殿でございます。
 重氏殿は、筑後筑前・肥後・肥前大隅・薩摩の六万町を御知行所となさっていらっしゃいます。屋敷は十方に十の蔵、南方に七つの泉、*てつかう・やうかう・自在の車、日月を自由に操れる宝珠などをはじめとして、あらゆる宝に満ち満ちていらっしゃいます。建物も、四季の景が楽しめるようにお建てになっていらっしゃいます。
 頃はいつかと申しますと、三月上旬半ばのことでしたが、一族全員が集まって、酒盛りをすることとなり、まず上座の重氏殿から順に盃が巡り、その後下から逆に巡って始まりと、酒盛りが真最中の時、突然強い風が吹いてきて、桜の花がさっと散りました。さて、この花が散った時、よそへ散るのではなく、重氏殿の酒をなみなみと注がせなさった盃の中へと、莟のままの桜が、さっと一房散り込みました。
 重氏殿は、人の世の悟りに聡い人ですから、この莟の花をつくづくとご覧になって、花も順に散るものならば、開いた花から順のはずなのに、開いた花は散らないで、莟の花が散るということならば、さあ、人間もあのように、老いた者から順ということにはならないと、老少不定をお悟りになりました。
 このできごとを後世を願う発心の契機として、元結を切って西へと投げて、濃い墨染めの衣に着替えて、「私は後世を懇ろに願うもの、これでお別れとさせていただこう、一族の方々よ」と仰います。その場の一族の方々はこの言葉に、「愚かなことを仰せあるな。侍の遁世ということは、人に領地を奪われて、面目を失って世間に顔向けができなくなった時になって初めて、遁世修行になると伺っております。そのように仰る重氏殿は、筑後筑前・肥後・肥前大隅・薩摩の六万町を治められているのに、いったい何が不足と思われて遁世修行と仰せあるのか。さて、今の遁世の心は、お止まりなさってくださいよ」と、一族の人々が引き止めますが、聞こうとしません。
 その時、重氏殿は二十一歳、奥様は十九歳でした。この重氏殿の遁世の気持ちが奥様にも伝わって、奥様は重氏殿に対面するために薄衣を手にして髪に載せて重氏殿のおいでの間においでになって、重氏殿のお姿を何度も何度も見上げ見下ろして、すぐにさめざめとお泣きになります。「これ、聞けば、わが夫の重氏殿様は、遁世修行をなさると承りました。世の中の侍が遁世をするのは、他人に領地を奪い取られ、面目を失って世間に顔向けができなくなった時になって初めて、遁世修行と伺っております。そのように仰る重氏殿は、筑後筑前・肥後・肥前大隅・薩摩の六万町を治められているのに、いったい何が不足と思われて遁世修行と仰せあるのか。さて、今の遁世の心は、お止まりなさってくださいよ」と仰います。重氏殿はこの奥様の言葉をお聞きになって、「あなたは愚かなことを仰るね。そもそも世の中の侍が遁世をするのは、他人に領地を奪い取られ、面目を失って世間に顔向けができなくなった時になって初めて、遁世修行と仰るのか。それはこの世に生きる甲斐を失った時のことで、生きるための致し方ない遁世です。このように話す重氏は、煩悩の絆(ほだ)しの綱を裁ち切り、仏の悟りの綱にすがって、六万町の領地を振り捨てて後の世を往生を大切に願うようにして初めて、仏の位に至るのです。どのようにお止めなさるとも、私は止まりませんよ、わが妻よ」と仰いましたので、奥様はこれをお聞きになり、今言おうかしら、または止めておこうか、今言わなければ、いつ言う折があるだろうかと迷って、「これは、恥ずかしいお話ではございますが、およそ女の身としては、夫の精を受けて、私の体の中には七月半になる子を宿しております。この子が生まれ、成人して、お父様はと尋ねた時に、いったい誰をその子の父として教えましょうか。せめてこの子が生まれて三歳になるまで、出家をお止(とど)まりなさってくださいませ。それが嫌だとお思いならば、私がこの子を産むまで、お止まりなさってくださいませ。私がこの子を産みましたら、わが夫の重氏殿様は、元結を切って西へと投げて、濃い墨染めの衣に姿を変えて、高野の山へとおいでになって、後世を十分にお願いになってください。さあ、その時は私も高野山の麓に参って、月に度ずつ、垢染みた衣をお洗濯申し上げましょう。いかがでしょうか、我が夫の重氏殿様」と申し上げると、重氏殿はお聞きになって、「そうか、そのようなことがあるならば、三月の間はここにいよう。三月過ぎてのその後は、あなたがどんなにお止めなさっても。もう止まりませんよ、妻よ」とお答えになりましたので、奥様はこの重氏殿の言葉をお聞きになり、なんと嬉しいことか、ここで一族の方々や私がいくらお願いしても一向にご承知なさらなかったのに、私のお腹の子のことを申し上げたところ、出家をお止まりくださって嬉しいと思い、やがて夜が明けたなら早々に、筑紫の大名衆に相談して、一族を先に立てて、今の若さでの遁世を思い止まらせよう、まずは嬉しいことよと、奥様は薄衣を髪に懸けて、奥のご自分の居間へとお入りになりました。
 重氏殿は、一間の内にいらっしゃって、よくよく今後のことに思案を巡らされると、あのように智恵を働かせる奥方なのだから、夜明けを迎えて朝になれば、筑紫の大名衆を呼び集めて、私の今の遁世を止めるであろうことは判りきったことだ。そこで思い止まったならば、せっかく思い立った我が遁世修行による来世往生の修行不足であろうとお思いになり、筆記具と料紙とを取り寄せて、書き置きの手紙をお書きになります。
 その書き置きの手紙の冒頭には、今胎内に宿って七月半の子が生まれた後、男の子ならば、石童丸と名を付けて、出家させてくれよ、また女の子ならば、どのようにしようとも、それは奥方の裁量に任せると書き始め、男女いずれにしてもこの世においての縁だけは薄くても、来世では必ず会おうものであると、こと細かに書き納めました。ああ、いたわしいことに、重氏殿は、一時も肌身を離さなかった刀と、籐の枕とこの書き置き文を、持仏堂にきちんと置いて、栄えているわが屋敷から、夜の闇に紛れて出奔されました。さて、重氏殿のお通りになる土地はどこどこか、順に追います。赤間が関を打ち過ぎて、周防の山口通り過ぎ、安芸の国の有名な厳島社の弁財天、あちらの方と遙拝し、備後、備中足早に、過ぎれば播磨の国に入り、ここはその名も仏法を広めるゆかりの広峰宿、仏の光は差さずとも阿弥陀にちなむ阿弥陀の宿、名は明かしとは言いながら、まだ夜暗い明石の浜、兵庫の浦をざっと見て、塵や芥を流し行く芥川から神南へ、淀川に沿う山崎の地を通り過ぎ、花の都の東山、坂を上って清水観音、そのお寺へと着きました。
 清水寺の三つの階段を上って、観音様のお堂にお参りして、鉦の緒に手を掛けて、鰐口を音高く鳴らして、「南無、大慈大悲の観音様、私が口らにお参りいたしましたのは、他のことではございません。福徳や知恵を授けてくださいと申し上げましたら、仏様もお嫌いになるでしょう。はるばるとここまで参りました御利益として、この重氏が安泰に、出家遁世の志を遂げおおせることができるように、お守りくださいませ」と身を投げ出して一心に祈りました。
 お気の毒なことに重氏殿は、そこから勧進を受ける場にやって来て、そこの一人のお坊様の近くに寄って、「これ申しお坊様、お尋ねしたいことがございます。この都で霊験あらたかな仏様とその場所を教えてくださいませ、お坊様」と問いかけます。お坊さんはこの言葉を聞いて、「そう言う若いお侍様のお国はどちらじゃ」と尋ねます。重氏殿はこの返事に、「さて、私めの故郷は、草深い田舎である、大筑紫の国でございます」とお答えしました。
 お坊様はこの返事をお聞きになり、「大筑紫の方ならば、都の様子をご存じないのももっとも、まず西の方は、裁縫極楽と申して、この山の上ではこの清水寺、麓では六角堂、一条の御房、誓願寺、また、嵯峨*ほんりう寺の鐘の音を聞けば現世の罪も消えるのじゃ、あちらへお参りなされ、お若い方」と仰います。重氏殿はその言葉をお聞きになり、「いえいえ、それは都の方々が諸寺をお参りなさる時のお寺と承っております。このお寺のご本尊の観音様に「出家の志を成し遂げられるお守りになってくださいませ」と申し上げる通り、私のような信仰心の薄い俗人の髪を剃って、出家の宿願を末まで成し遂げられるお寺を教えてくださいな、お坊様」と頼みます。「それでは、*御さんは、ちんさんの事じゃろうか」「いやいや、それは学問をする所と伺っております。私はただ、私のような俗人の髪を剃って出家させてくださるお寺を教えてください、お坊様」と申し上げます。
 お坊様は、この重氏殿の言葉をお聞きになって「その場所もここにございます。まず、西は西方極楽と申して、ここでは清水寺です。また、ここに、もうお一人、法然上人と申し上げて、比叡の山で修行され、東山へと下られて、新黒谷に金戒光明寺というお寺をお建てになって、今が仏法を広められているさなかの方がいらっしゃるから、あちらへお出でなされ、お若い方」と教えてくださいます。重氏殿はこの説明をお聞きになって、「もし、お坊様、その新黒谷とかいうお寺への道のりは何里ほどですか」とお尋ねになります。お坊様は、この問いに、「経書堂の左脇の道を通り、祇園林の山はずれの粟田口の方を北へ指しておいでになれば、間違いなく新黒谷西門に尽きますぞ、お若い方」と教えてくださいます。重氏殿はお聞きになって、「なんとご親切なお坊様だ、私がそのお寺にいることができて、出家を続けることができたなら、その時重ねてお礼をもうしあげましょう。それではお暇いたします、ごきげんよう」と言って、お坊様の教えの通りに、経書堂の左脇の道を通り、祇園林の山はずれの粟田口の方を北へ指しておいでになると、新黒谷西門にお着きになりました。

琴腹 福福亭とん平の意訳

琴腹

 後一条院の御治世の時、中宮のお部屋に立てられていた琴の腹に鼠が子を産んだので、お仕えしている人たちが、これは一大事と言い合っていたところ、天皇様も、「このようなことは、先例が多くあることか」と、殿上人たちにお尋ねになりました。「置いてある日常の品でも、めったに手を触れない道具でもたまには気になることがあるから、鼠なども巣を作ることはないのに、それにも増して朝夕にお使いになっている琴でありますのに」というような話をして、あえて騒ぎだてをしないで、ひそひそと話をして過ごしていましたが、当時の第一の位にある大臣の宇治の関白頼通公が昔の例をいろいろとお調べになったものでしょうか、内裏にお出でになって、「昔、孝徳天皇様の御代の白雉年の半ばころ、御厩の優れた馬の尻尾に、鼠が巣を作ったことが古い文書に触れられておりました。そのようなことも何か理由があることと言い伝えております。これは大変な『ことはら』というものでございます」とお仰せになりました。
 その後、天皇様のお側に仕えている人々に、「このような珍しい出来事は、上手な歌を詠んでうまく予言をすれば、その言葉に従って災いを転じたという先例がある。それでは、皆々に思い付く限りの歌を詠んでもらって、吉に転じてみよう」との天皇様の御言葉がありましたので、お側の人々は、その目的にかなうような歌を詠んでみようとそれぞれ思いを巡らされたということです。その時に歌詠みとしての評判を得ていた人の中でも、清原元輔の娘の清少納言大隅守時用の娘の赤染衛門大江雅致の娘の和泉式部を始めとして、有名な歌詠みたちが、ああ、何か名歌が思い浮かばないかと、いろいろと考えを巡らせましたが、いい加減に平凡な歌を詠み出したら残念なことになるとして控え、ますます深く考え込んでしまったせいでしょうか、誰一人、ほんの少しも言い出さなくなっていました。
 誰もが歌を詠み出せないでいる状況を、世間の人は、実に歌詠みとして面目が立たないと思っていました。そのころ、世間に名が知られ、春の花、秋の月の風情ある歌の宴の時には宮中に参上する道命法師が、ちょっとした念願があって伊勢の国ヘと出掛けていましたが、途中で都の人に遇ってこの災いを転ずる歌を詠むということを聞いて、すぐに、思い付いたことがあったのでしょうか、歌を案じ付いたと、都へ手紙を寄越しました。
 和泉式部は、伊勢に行っている間に道命が歌を詠んだということを聞いて、とても羨ましく思って、道命が伊勢から帰る途中の宿へ行って道命を迎え、身分の低い遊女の姿に身を変えて、ある夜、暗い中で道命に近付いて、「都の方で評判になっている琴の歌を思い付かれたとのこと」と言って、「お聞きしとう存じます」と口に出すと、道命は「軽々しく口にして楽しむものではばい。都で申し上げて唐のことだ」と言って、相手にしませんでした。それに対して、「もうここは都に近い所でございますよ。都で仰られた後なら、自然に聞こえてくるでしょう。せめて、ここでは、始めの五文字だけでも教えてください」としきりに願ったところ、道命は断ることもできず、「始めの五文字は『いにしへは』という五文字だよ」とだけ言って、その後は何も言いませんでしたので、和泉式部は、ちょっと冗談に聞いただけというように振る舞って、それからすぐに都へと帰り,宮中へ参上して、「このような歌を思い付きました」と言って、
  いにしへはねずみ通ふと聞きしかど ことはらにこそ子はまうけけれ
  (昔から鼠が通っているのだ聞いていましたが、いつか居ついて琴の腹に巣を作って子を作りました。ちょこちょこと通っているうちに、別の方に子が出来ました)
と申し上げたので、他の人は面目を失い、天皇様は格別にこの歌をおもしろがられました。
 前の関白の廉義公の御子様の実資公という方がおいででした。この方も名歌を詠もうと一心にこの「ことはら」の歌をお考えになって、
  あふことはいつ手枕の野辺の床たがねずみして生ふるなでしこ
  (二人が手枕を交わして逢うのはいつの野辺の床か、誰が通ってかわいい子が生まれたか)
と詠みましたが、前の和泉式部の歌で歌は吉に変わったというのでしょうか、この歌には誰も採り上げることがありませんでした。
 それから後に、道命が伊勢の国から帰って、宮中へと出たついでに旅の途中で詠んだ琴の歌を申し上げますと、既に和泉式部が宮中で披露した歌と同じでありました。以前には五文字以外何も言いませんでしたのに。二句以下が全く同じでありましたのは、道命も和泉式部も、どちらも歌道に達した不思議なことでありました。この「ことはら」の和歌の徳なのでしょうか、別の宮様のお腹、つまり「異腹」に後に後冷泉天皇となられるお子様がおできになり、めでたいことであったということです。
 道命が都へ上ったということを和泉式部が聞き伝えて、どういう思いなのか、道命へと手紙を送りました。その手紙の末尾に歌を書き付けました。
  伊勢の神かけてたづねしいにしへはかよふねずみのあなかしこなる
  (神のいます伊勢へと以前尋ねて行って歌を尋ねて盗んだのは、鼠の様に秘かに通う私の仕業で、まことに失礼しました)
こう書いてありましたので、道命がさては伊勢で一夜だけ逢った女性は和泉式部であったのかと知り、やられてしまったと思いました。それを知ってから後、道命は和泉式部にどんどん親しくなって、深く相手を思い、通う道が遠くてもとにかく命を掛けてもと、和泉式部は摂津の国の天王寺詣でや、住吉の浜へのお出掛けという形をとって、天王寺にいる道命のもとへと逢いに通っているのが人々に広まって、二人の仲が知れ渡りました。
 この道命阿闍梨は、東三条に屋敷のある関白藤原兼家公のお孫様で、お父様は右大将道綱卿です。道綱卿は生まれながら美男でいらっしゃったので、そのお子の道命阿闍梨も、小さい頃から美男でした。出家をなさった後は、天王寺別当にお成りになりました。才能もあり、性格も人より遥かに優れて良く、多くの御経を暗誦され、特に声明はとりわけ素晴らしく、経典を上げる声は比べものがありません。それなのにこの道命阿闍梨は、これほど徳を積んでいるのに、色欲が深く、身持ちの悪いことは、この人柄に似つかわしくございませんでした。
 また不思議な出来事もありました。道命は昼夜それぞれの時ごとに、御経を欠かさず上げられていますが、天王寺でのある読経の時に、聞き慣れない大きな音がしましたので、道命が「誰じゃ」とお尋ねると、「私は京の五条洞院のあたりに住む老人でございます。毎晩の亥の刻から丑の刻にかけてのお勤めの時には、いつも参上して拝聴しておりますのを、あなたはご存じではありませんでしたか」と答えましたので、道命は、「都からこの天王寺までは随分離れているのに毎晩おいでになっているとのこと、あなたは取り分けお年を取っていらっしゃるように拝見いたしますが、どういうわけでお出でになりますか。お名前は何というのですか」と尋ねると、「少彦名神と申す」と答えて、姿を消しました。それから後、道命が御経を上げる時には、必ず神がお出でになるということです。
 ということで、この道命は、このような不思議な出来事がある方でいますが、徳が十分に身に付いているから、朝夕の仏前のお勤めをずっと欠かさずに続けていることが永くなっています。読経も声明もすばらしい音律で、聞く人は皆、素晴らしさが身に沁みます。同じ良さの人もいますが、道命の声より優れている人はいないと人々の評判です。
 このようなことで、道命は神の心にも通じていたのでしょうが、ある夜、和泉式部の許へ出掛けて、夜明け頃まで、あれこれと親しくしていた時にも、いつものお勤めとしてしばらくの間、声明を素晴らしく唱えられている最中に、もしかして神様がお聞きになっていらっしゃることがあるかも知れない、我が声明を神も聞きに来ていると言うことを和泉式部にも話して、自分が不思議なことをもたらすのだと思わせてやろうとして、声明の終わりの時に、道命が、「今夜も神様はお出でになっていらっしゃいますか」と声を掛けて尋ねられましたが、全く答えがありませんので、妙だなとお思いになりました。
 また、ある時に、道命が陀羅尼を、とても心を籠めてしばらく唱えていました。声の高低が実に見事に調い、聞く人の心に深く沁み込みました。夜明けがたの月の光は住の江の浜の松の木の間に沈んで行って、日の出前の岸の浪は、黄金色に光って岸に打ち寄せていた、その光景がとても趣あるという時に、いつぞやの神様がおいでになっているのでしょうか、室外のほど近いところに人が来たように思われました。そこで、道命が声明を唱え終えて後に、「神様がまたお出でになっていらっしゃいますか」と問いかけると、「今夜は来ている」と、とても厳かなお声で答えがありました。その答えを聞いて、道命が、「先日、都で和泉式部の宅にいた時の夜明けに、、おいでかとお尋ねしました時に、お答えがありませんでしたのが不思議でした。特に、あの時の屋敷は、皇居にも近い場所でありますのに、この天王寺までは随分離れてましておりますのに、それにも拘わらず毎晩お出でになられるということは、どのような訳でございますか」と、尋ねると、少彦名神様は、「そのことよ。都に近い場所は、ますます聴聞に通いたい場所ではあるが、そなたが和泉式部の屋敷にいる時は、そなたは和泉式部と親しくした後なのて清らかではなかった。ほんの少しでもそのようなことがある時には、不浄を嫌って決して近付かないのである」とお答えになりました。
 昔は、このような不思議なことがありましたのでしょう。この話は現代までずっと語り伝えられています。