相生の松 福福亭とん平の意訳
相生の松
さて、昔から今日に至るまでのおめでたい例として言われることは多いですが、その中で、鶴の雛が巣立つ姿は千年の寿命を見せています。また、池の岸近くに亀が浮かび出るのは、万年の寿命の姿を見せるということです。それにも増して、格別にめでたいのは、冬の夜の嵐の吹きすさびや、、厳しい露や霜に当たっても緑の色を変えない松がそれです。松がいつもその色を変えないということがあるので、長生きの名の長生殿庭には陸奥にあった姉歯の松が移し植えられ、年を取らないという名の不老門の扉の内にはまだ小さい小松が植えられました。異国の唐の例を考えると、赤松子という仙人は、松葉を食べて長生きをしたと言い、また、我が国の昔を尋ねると、三保の松原は富士に近い特別な霊地として、天人がここに下ってきて、天人の袖で撫でても尽きることのないような磐石のという歌が詠まれたように、御門の長命を祝福する千年の寿命を保つ鶴がここの梢に飛び通ってきているということです。
このような世の中で、生えている草木の種類はさまざまあり、草木それぞれに名が付けられていますが、その草木にも男女の間と同じ情けの道があって、夫婦の契りは永遠に続くものなのです。親しい契りの雌雄、野に広がるつぼすみれにも、男女の情と同じ情が通っているとは申しますが、その中でとりわけ「相生」の名の通りにめでたいことに伝えているのは、播磨の国の高砂の浦のことで、ここに、松が枝姫様というとても顔形の美しい姫神様がいらっしゃいました。この方の御名を松が枝と申し上げるのは、お住まいの庭に姫小松を植えて、いつも色の変わらない松の姿を愛されましたので、この様に名付けたのです。この姫小松は、植えてからだんだん年月が重なるにつれて、枝が伸び、葉が繁って、高砂の浦吹く風に揺られて鳴る枝葉の音が、あたかも琴を弾く音のようで、それを聞くと心が澄み渡ります。松が枝姫はこの松の調べを楽しみ、いつも松の傍においでです。さらに年月は重なりましたが、姫のご容貌はますます若々しく、お年を召す様子はありません。
さて、ここ摂津の国の住吉の浦に、松高彦の命様という男の神様がいらっしゃいました。この神の名を松高彦と申しますが、そのいわれは、松の緑の色を変えない葉が、高い枝となって繁りあった姿があり、霜の降りる寒い秋から冬にかけて吹く風によっても緑の色が変わらないままで、地に落ち積もる松葉の数が搔き尽くせないほど積もるほどの長い年月にこの松を愛されましたので、松高彦様と申し上げます。
古く昔のことを申し上げると、畏れ多くも天の神の七代目の伊弉諾尊が日向の国の橘の小戸阿波岐原においでになって、海辺に下って海中に入られて潮を浴びられますと、この潮の中から一柱の神が現れました。そのことがあってから数十万年を過ぎて、神の代から人間の御門の時代になって、神武天皇から第十五代に神功皇后と申し上げる御門が、高麗、百済、支那の半島の三韓を平定して我が日本国に従属させようとお思いになった時に、この阿波岐原の波間から出現された神がたちまち姿を現されて、神功皇后にお会いになって手助けをされたので、実はこの三韓への出陣の手順はすべてこの神のお考えによるものでした。こうして、この神は神功皇后が大陸へと出陣される時に皇后の護りとなり、皇后は思いの通りに三韓を攻めて平定して、日本の土地へお帰りなりました。その時にその神は摂津の国へお出でになって、ここが安住するのに良い場所であると仰せになって、その地に神となられて、落ち着かれました。厳かな社を建ててお祀りして、住吉の明神と申し上げます。
このようにして、長年に渡って霊験が並びなくあらたかですので、国中の人々がこの住吉の明神をありがたく敬って、住吉の浦の浜木綿で幣を作って、多くの人々が参詣に訪れます。
神前では八人の舞を献ずる乙女と五人の神楽を奏する男性が欠かさず神前に奉仕して、神様のお気持ちを鎮め申し上げています。さつさつとさやかに響く鈴の音が、住吉の松の並木に吹く浦の風の音に重なり、とうとうと鳴る鼓の音が岸に寄せる波音かと思われて、住吉の宮はますます賑わっています。ところで、この住吉の浦と言いますのは、青海原が西に向かって豊かに広がり、四国や九州の果てまでも眼前に見ることができ、手に取れる程の近さに思えます。
そのためでありましょうか、津守の国夏がこの住吉の浦の見晴らしを詠んだ歌にも、
朝夕に見ればこそあれ住吉の浦より遠の淡路島山
(朝晩に見なれているのであるよ、住吉の浦から遥かに見える淡路島の山よ)
とありますのも、この住吉の明神様の御心を推し量り申し上げると、唐から我が日の本を侵略しようとする企みが長年に渡って何度も繰り返されることをかねてからご存じでいらっしゃって、我が国を取り巻く海が賊から犯されることなく穏やかで、国に暮らす人々が豊かに過ごせるようにとの護りの神とおなりくださっていることはありがたいことです。
さて、先にお話した松高彦様は住吉の浦に出て、浜辺の松の梢を御覧になりました。松の緑はこの上なく色濃く空に溶け込んで、どこへともなく歩みを進められます。海の彼方から吹いてくる風の音の中に、琴の音が混じって聞こえます。松高彦様は不思議にお思いになり、自身で海岸へと出て行き、一艘の小舟に乗って海中へと漕ぎ入り、琴の音を便りとして進んで、どこで弾いているのかと尋ねられます。敷津、高津の浜を過ぎて、難波の御津の浜へと琴の音に導かれて行くと、古来有名な播磨の国の中でも特に名が知られ、松風の音も高く聞こえる高砂の浦、尾上の松の場所にとお着きになりました。
松高彦様は暫くそこに舟を止めて、琴の音をお聞きになると、かすかに聞こえていた琴の音が生まれている場所はここと聞き定めて、舟から陸に下り立たれ、あちらこちらと歩かれると、少し離れた場所に、風景に溶け込んだ建物で、庭にはどれくらい長い年経っているのかと思われる梢が年を経た姫松がたくさん生えていて、その繁った松の木の色が空に聳えています。その木々に浜辺の風が吹き寄せると、枝葉と触れ合って、まるで琴を弾いているような音になり、第一、第二の絃は伸び上がるように音高く、また静かに退くように音低く鳴り、次の第三、第四の絃は調子を変えるようにも、また高い調子にするようにも鳴り、第五の絃の音は天子様の長寿を祝福する良い譬えとして、「万歳楽」の曲を演奏しているようです。また、国が平和に治まって、国の人々は安楽に暮らせ、五穀は豊かに実って、穏やかな様子を表す「太平楽」の曲と聞こえます。
松高彦様は立ち止まってこの曲をしみじみとお聞きになり、その琴の音色を深く心にお止めになって帰ることもゎ忘れになります。その日もだんだんに暮れ方になってきて、あたりがすっかり不気味なほどに暗くなってしまいましたので、そこの建物の中にずいとお入りになると、部屋の中には人は少なく、ただ身の回りの世話をする少女一人二人が傍に仕えているだけの、この上なく上品な女性が火を灯させて座っていて、壁に映る女性の影までもが由緒ありげに見えます。
松高彦様は、この座敷内の女性をご覧になって心が宙に飛んでしまって、落ち着いた思いがなくなって迷いの中に入ってしまって、女性のお付きの少女を呼び寄せ、女性の名をお尋ねになると、少女は、「これは何ということ、姫様のお名前をご存じないのですか、姫は松が枝姫様と申し上げて、日頃は庭の松の中に暮らして、色を変えない松の色をお愛しになられています。松の梢を吹く風の音が生み出す琴の音を親しくお聞きになっていらっしゃいます。この場所は憂き世を離れた尊い仙境で、世間一般の人などは、来て住むことのできる土地ではありません。さっさとお帰りください」と答えます。
松高彦様はこの答えをお聞きになり、「ここは有名な播磨潟で、名も松吹く風の音も高い尾上の里と聞いているので、だれの心にもゆかしい土地であります。そのような土地で、とりわけて私の心に深く沁みたのは、松の梢の琴の音で、浦を強く吹き渡る風に乗って摂津の国の私のいる住の江の里まで聞こえたので、その琴の音を導きとしてここまで来ました。今日は日が暮れてしまったので、住の江へと戻る舟路がはっきり判りません。ここまでやってきた一艘の小舟は岸に繋いではありますが、夜が更けて漕ぎ出そうにも、海辺で人々が燃やしているかすかな火では帰りの導きとしては頼りになりません。一つのお願いは、この夜が明けるまで、宿をお貸しいただきたいのです。どうか、お願いいたします」とお答えになります。少女は、建物の中に入り、「以前から伝えられた話があり、外からの訪れる人について気になっていることがあります。お泊め申すのはよろしいのですが、私どもがひっそりと住んでいるこの海辺の粗末な建物は、竹の網戸も隙間だらけで、また褥として敷く物もありません。海辺で集めた海藻などを夜着として、一夜をお明かしなさいませ。それでよろしければ、こちらへお入りください」と言って、中へと案内します。
松高彦様はとてもお喜びになって、この建物の主に、「私は、ここから遥かに離れた摂津の国の、人々がとても住み良いといわれている住吉の浦の松並木に住む松高彦と申す者です。私は、昔から今に到るまで一筋に浜辺の松を大切にし、遥かに松に吹いてくる風に靡いて揺れる松の枝々や、色変えない松葉の緑を愛してまいりました。そのような折、住の江の浦の岸辺から遥かに遠い所から、吹く風の音に混じって聞こえる琴の音に心が惹かれて舟を漕ぎ出して、舟の進みに任せてご当地までまいりました。そこでこちらのお庭にある姫松のその姿にうっとりとして目が離せなくなり、とうとう日が暮れてしまいました。あなた様が御情け深くいらして、一夜の宿をお貸しくださるとのこと、とてもとてもありがたいことです」と仰られると、この家の主の女性は、「左様でございますか。この私もこの年月、松に心を深く寄せて長いことになります。あなた様はご存じないでしょうが、この高砂の尾上の里と申しますのは、神代の昔から、世の中の並の人は来て住むことの出来ない、とてもとても高貴な土地なのです。私がこの土地に世間から離れて住んでいることなど、知る人はおりません。あなたのような高貴な方にお目に掛かることは、とても恐れ多く恥ずかしいことです。恥ずかしながら、この上は、もう何を御遠慮申しましょう。あなた様はぜひこの土地にお留まりになって、私共々、松を愛し、松が永い年月その深緑の色を変えないように、千代も八千代も変わらない契りを結んで、ここにお住みになってください。
この様な話がございます。昔、唐の国に、劉(りゆう)虔(けん)という人がいました。山に入って薬を採ろうとした時に、谷に下りて水を汲んでいたところ、水の上に独楽という物が浮かんで流れて来たのが見えました。また、その後から、美しい盃が流れて来ました。劉虔は不思議に思って、これは、この川上に人が住んでいる里があるとみえる、行ってみようとして、水の流れに沿って谷間を上って二十里ほど行きますと、山奥へと入りましたので、梢で鳴いている鳥の声までも聞いたことのないもので、あたりを見回すと、桃の林が茂り合って、花が今を盛りと咲いていて、花の香りはあたち一面に満ちていました。劉虔はしばらく立ち止まって、思いも寄らないこのような山奥に、このような花の咲く場所があったのか、木立はとても鬱蒼としていて、木々に囀る鳥たちのいろいろな声も聞き慣れないものだ、ここはそもそも人間の住む世界ではなさそうだ、これは、常々話に聞く仙人の住む世界に違いないと思い至った時に、とても美しい女性が谷のほとりにやって来て、水を汲んで洗い物をする様子でしたが、劉虔を見付けて、とても喜んで、『あなたのおいでを永年お待ちしておりました。今日からはこの土地に住んで、私と夫婦になって、長生きをなさってくださいませ』と言って家に案内して、深く契りを結んで、二人の仲はこの上ない親しいものでございました。
こうして劉虔は女性と結ばれて暮らしていましたが、どうしても故郷が懐かしくなって、山奥から元暮らしていた故郷へと帰ってみますと、女性と暮らしたのはほんの三年ほどと思っていたのですが、自分の家には七代目の子孫がいて、劉虔と巡り会ったのでした。劉虔は再び山に入って、以前の女性と会った谷を探しましたが、桃の林はありませんでした。
このような話を聞いておりますが、この話の桃の林の土地は唐の国の仙人の住む土地でございます。ここ尾上は我が国の仙人の土地でございます。あなた様は平凡な普通の人ではいらっしゃいません。私もこの人間世界の者ではございません。長寿の松に心を寄せて不老不死の悟りを会得して、この世の生の楽しみを十分に味わうのです。今から後は、この土地にお留まりになられて、私と夫婦としての契りを結んで、私にいつまでも情けをお掛けください」と語られました。
だんだんい夜が更けていくにつれて、松の梢を吹き渡る風も心があるように穏やかに吹き、千鳥の鳴く声が遠く聞こえていたのが、今度は近く聞こえます。これこそ、千鳥の鳴く声に潮の満ち引きが知れるという歌の趣意と合っています。二人は寄り添って夫婦の語らいをしながら添い寝をしていましたが、いつしか夜明けの雲が空に棚引いて朝を迎える時となったので、松高彦様はお起きになって、「このような一夜の添い伏しであっても、二人の契りはいつまでも変わるものではなく、末永く続きます。たとえ住む土地は遠く離れていても、常に親しく通えば、あなたと私との気持ちは決して離れません。あなたは女松という赤松をお植えなさい。私はそれに男松と呼ばれる黒松を植え添え、夫婦としての仲はいついつまでも続きます。二人の仲は何年経とうとも変わらないことを、この男松女松をその証として植えましょう」と仰って、二人で二本の松を植えて、松高彦様は住の江にお帰りになりました。
それから後は、雨が降る日も雪の日も、たとえ嵐が激しい夜であっても、ひたすらに波を分けて一艘の小舟が雲のきれぎれの合間に見え、まるで人目を忍んで通う男性を見るようで形で、松高彦様は毎夜住の江から尾上の松が枝姫様のもとへとお通いになりました。
この男女二柱のご夫婦の神がお手ずから植えられた女松男松の二本の松は、年月が経つにつれて同じくらいの若葉が出て、枝が伸び葉が繁ってすくすくと伸び、梢は雲を分け行っています。このように永い年月が経ちましたので、ご夫婦共にお年の寄ったお姿になられて、髪はすっかり白くなってしまいました。「それでは、この松の木の下に立って、若返りの音楽を奏することにしよう」と仰って、錦の褥を広げて、お二方でこの中にお籠もりになります。尾上の風の吹くのに合わせて、楽を奏するための調子合わせの笛の音が清み渡って高砂の浦に響くと、富士山と熊野山と熱田の宮を日本三神仙の山と申しますが、この山の神仙たちが我も我もとこの高砂の浦に集まって来て、その笛の音に合わせて音楽を演奏したので、海中にいる魚たちは音楽のあまりの面白さ、尊さに感動して、浦の岩場や波打ち際に集まってこの音楽を聴くというすばらしいことが起こりました。
まことにこの不思議な出来事に起きたことは、夜明け方の月の入る西の方から紫の雲が湧いて空に棚引いて、その雲の中から吹き出す強い風が松を揺らして、夫婦二柱の神の体にと吹きかけると、お二人はすぐさま、若い時の御姿に戻られました。
昔、住吉の明神が、宇治の橋姫にお通いになり、住吉の明神が宇治へとお通いになる時は、宇治川の流れが激しくなり、朝日山の風が激しくなったのがその証拠であると言われ。その通われた折の住吉の明神が詠まれた歌が、
夜や寒き衣や薄き片そぎの行き合ひの間に霜や置くらん
(夜が寒い、薄い衣で住吉の社から宇治への通い路に霜が置いているのであろうよ)
と、冬の夜をつらく思ってお詠みになったという話が伝わっていますが、実はこの話は、住吉の明神の宇治へのお通いではなく、松高彦様が住の江の社から松が枝姫様の尾上の社へとお通いになる時の冬の夜の激しい風の音に加えて、住の江へと夜明け前のお帰りの時に神社に霜が置くことをつらいとお思いになって、このようにお詠みになったもので、宇治への通いのことではございません。
こうして、年月が過ぎ行くままに、お二人の神は飛行自在の身をなられて、天へと上られましたが、夫婦としての深い契りは植え置いた松にお残しになりました。男松女松二本の松は互いに伸びて、ますます枝葉を繁らせましたのを、土地の人々はこれを大切に守って、めでたい話の例として、相生の松と名付けました。『古今和歌集』の序文に、「高砂住の江の松も相生のように」と、高砂と住の江の松が共に仲良く生えているようにという意味で、今日まで連綿と続く御門の治世が、いつまでも続くものであるという譬えに書かれたのは、この二人の神がかつて植えられた相生の松のことであるとかいうことです。
参考 「相生松」と「尉と姥」
(高砂神社<兵庫県高砂市高砂町東宮町190>ホームページ)
古くから謡曲「高砂」の『高砂やこの浦船に帆をあげて…』のめでたき響きによって親しまれている高砂神社は、その昔、神功皇后の命によって創建され、素盞鳴尊とその妃奇稲田姫、その皇子大国主命の三神をご祭神として祀られています。縁結びの象徴として知られた“相生松”が、高砂神社境内に生い出でたのは神社が創建されてまもなくのことでした。その根は一つで雌雄の幹左右に分かれていたので、見る者、神木霊松などと称えていたところ、ある日、尉姥二神が現われ「我は今より神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げられました。これより人は相生の霊松と呼び、この二神を“尉と姥”(おじいさんとおばあさん)として今日めでたい結婚式になくてはならないいわれになったと伝えられています。
尉姥祭について
尉姥祭のおこりは、天正年間、豊臣秀吉の三木討伐のどさくさにまぎれて、尉と姥の神像が行方不明になってしまいましたが、二百十七、八年ほどたった江戸時代の寛政七年(一七九五年)に、京都西御所内村の勝明寺という禅寺で、どうやら二神像があるという噂を、高砂の人が聞き込んできました。この寺では、寿命神といって、尊崇しているということでした。そこでさっそく、氏子代表の五十川氏と八木氏とが京都へ旅立ちました。寺僧に神像のいわれを話しましたが、檀家の人たちがうんといいません。それならばおみくじを作り、神様のお考えをお伺いし、神様の御心にお任せしましょうということになりました。このおみくじを引いたところ、再三のおみくじに「私は高砂の本社へ帰ろうと思う」と告げられ、村内の人々も皆、渇いた者が水を切望するように、二神を仰ぎ慕っていたので、間もなくご還座することが決定しました。
その年の五月二十一日、京都所司代の命により還座祭が執り行われました。このことは世間に広く知られ、恐れ多くも御所から帝と関白殿下、公卿百官までが皆ご拝礼され、ご神像が高砂へ帰る様子は大変な有様であったようです。それより毎年、相老殿において、お面かけ行事が、五月二十一日に行われるようになりました。また、『おまえ百までわしゃ九十九まで共に白髪の生えるまで』と謡われています。“尉と姥”は平和の力と技術を表し、また慈愛と健康長寿の象徴として、結納品にも使われています。現在、高砂では、地域の伝統文化の象徴ともなっています。尉の持つ熊手(九十九まで)は寿福の象徴でもある相生松の松葉を掻き集める道具として、縁起ものになくてはならないものであるし、姥の手にする箒(掃ハク=百)は、清浄にする意味と厄を祓いのける呪術的意味があり、厄を祓い福を招き寄せることを表し、夫婦和合長寿を祈っています。
古浄瑠璃すみだ川 後編(四段~六段) 福福亭とん平の意訳
すみだ川 後編(四段~六段)
四段目
梅若様が亡くなられ、土地の人々は梅若埋め若様の御遺言に従って、道の端に塚を築き上げ、墓の標として柳を植え、大勢の人が集まって念仏を唱えて、懇ろに梅若様の菩提を弔いました。今でも三月十五日には多くの人が参詣するということです。一方、酷い目に遭ったということでは、奥様が身を寄せた権の大夫の扱いが最たるものでありましょう。権の大夫は粟津の六郎俊兼の伯父でありましたが、奥様が着いたその夜にじっくりと考えると、吉田是定様から御恩を深くいただいてはいるけれども、春は花に、秋は紅葉にと遊ぶだけで、何の頼りにもならない奥方、さっさと追い出してしまおう重っいぇ奥様に対面して、「さて、奥方様、白川の吉田屋敷にいる松井源五定景のところから必ず討手がやって来ます。夜が明けてからお出になれば、人の噂になるでしょうから、今夜の内にさっさとお出ましください」と、つれなくも追い出します。雨宿りのために頼りとして入った木の下で雨が降り注いで濡れてしまうというのは、このことを表す譬えであるなと思いながら、奥様は泣く泣く権の大夫の屋敷を御出になります。吉田の屋敷から付き添ってきた女房は、あまりのお気の毒さに、途中の御坂までお供をして、「ここから都は近うございます。梅若様のお行衛をお尋ねください」と申し上げて、ここでお別れいたしますと暇乞いをして、名残惜しくも別れました。
お気の毒に奥様は、醍醐、高雄、八瀬、大原、嵯峨、仁和寺と都の東西南北を見落とすこと無く梅若様の姿を尋ねましたが、その行衛は全く判りません。そのような時に、五人連れの旅の僧に出会いました。「私の子の梅若の行衛はご存じありませんか」とお尋ねになりますと、僧たちはこの言葉を聞いて、「行衛知れずになられたのはいつのことでありましょうか」と訊き返します。奥様は、「昨年の二月の末の頃に行衛が判らなくなりました」と涙を流しながら仰いますと、僧たちはこれを聞いて、「「おお、その二月の末の頃、大津の三井寺の近くで、東国から来た人買いらしい者が一人を連れて東へと通りましたが、その若者のことについては、東の方をお尋ねなされ」と言い捨てて、通って行きました。奥様はこの言葉を聞いて、「それでは梅若は東国へと売られたのであるか、ああ、情けないことじゃなあ」と言って地面に倒れ臥してお泣きになります。奥様が涙を流しながらあれこれと嘆き言を口にされるのは哀れです。それは、「おお、それよ、およそ人間の常として、多くの子を持ったとしても、どの子が可愛いと隔てをする心は持たぬ。この私は多くの子ではなく、可愛い子が二人、その二人ともに行衛が判らず姿が見えぬ。残った母はどうすれば良いのか、。ああ情けない、東へと捜し行こうか、私は年は重ねているが、まだ色香は残っているので、正気を失った女の姿になって出掛けよう」と一人口にして、しかるべき場所に立ち寄って旅の仕度を調えなさいました。
お気の毒な奥様は、手早く旅仕度をなさいます。髪をあちこちへと乱れた形にして、笹の葉に垂を付けて肩に担ぎ、実の心は少しも狂ってはいませんが、人は気がふれた女と見るであろう形です。この妙な姿は何が原因かと言えば、皆我が子と巡り逢おうためと思えば、口惜しさは全くありません。八重一重、九重の都をいで発って、四条五条の橋の上、はるかに望む王城の鬼門に当たる比叡山、そこの林は祇園殿、祇園の林に群れ集う、浮かれ烏の黒い羽(は)の、飛び立つ時と同じくし、早くも浮かぶ峰の雲、ここは仏の説かれたる教えの花が開くはず。直ぐに我が子に巡り逢う、所の名前も粟田口、その名を聞くも頼もしい。逢坂の関の明神伏し拝み、内出の浜へと足は向く、三井のお寺を訪ねれば、宵から未明の時までの絶えぬ読経の声々は、身に沁みいるばかり有難い。鐘楼堂を見上げては、この鐘の音がとうとうと、浪に響いて疾く疾くと、磯千鳥鳴く松本を、すでに過ぎ行きその思い、気は急くばかり瀬田の橋、その唐橋をどしどしと足音高くうち渡り、世を見下ろして鳴く鶴は、子を思うゆえ鳴くのかと哀れに思う母心。立ち寄る木の下袖濡れて、裾には露散る篠原を、はや通り過ぎその姿、見ながら通れ鏡山、誉れは高い武者の名に御咎通ずる武佐の宿、愛知川渡れば千鳥飛ぶ小野の宿、そこを過ぎれば磨針峠、涙流して急ぎ行く。浅い眠りに夢覚める醒が井の寝物語をもはや過ぎ、美濃の国のと名の高い、野上の宿に着きました。
お気の毒な奥様は、ここで、「とかく人間という存在は、故郷へは錦を着て帰るものという古来の言葉があります。一方私は、子ゆえの闇に理性を失って、このような情けない姿で故郷に帰るというのは情けないことです。おおよそ、この世に生まれて八相を示されて悟りを開かれた釈迦牟尼如来でさえも、子のために迷いの闇に沈み、また訶梨帝母と言う人は千人の子を火持っていましたが、その中の一人と別れる時に、子全員と別れるのと同じ嘆きがありました。およそ人間という存在は、多くの子をもっていても、どの子にたいしても分け隔てないもの、私は多くも子を持ってはいませんが、愛しい子を二人とも行衛知れずとし、この母はこの世でどうなるであろうか判らない、一本だけ立つ松のような便り無い存在です。これこれ、この世に紙も仏もいらっしゃらないのか、生きている内にこの世でもう一度、我が子の梅若に巡り会わせてくださいませ」と深くお祈りをさって、四方に礼をなさって、また身も世もあらずにお泣きになります。実が生るという美濃の国、花が薫るの薰(くん)の字に通う名前の杭瀬川、夏暑とかの熱田の宮、涙の露は置かないと、岡崎の里通り過ぎ、だんだん今は涙がない浪の堤、竹のささらがざざんざと吹く浜松のその風は、袋に収める袋井の紙に祈りを叶えてと、願いを兼ねる金谷の宿、辛い思いを大いに流せ大井川、島田藤枝もう過ぎて、尋ねて聞けば鞠子川、三保の松原清見寺、これこれ我が子梅若を夢になりとも見せよとて、三島の宿から足柄箱根、これらの宿を通り過ぎ、相模の国に名の高い、老いぞと響く大(お)磯(いそ)宿、恥ずかしながら我が姿、宿の名聞けばつまらない、早、藤沢にお着きある。かたびら宿で帷子(かたびら)を、着るではなくて来てみれば、今は夏かと思われて、秋にはすぐになるのかと、先行きそびれる神奈川宿、川崎過ぎて六郷橋、世の中の悪いことがら致しそう、その品川を通り過ぎ、濁ったこの世を離れ行く、厭離穢土とは同じ名の江戸ある武蔵と下総の境を流れるすみだ川、埋め若様の母上である奥様はこのすみだ川にお着きになり、あちらこちらと立ち寄られなさいます。この奥様の御様子は、空しいという言葉だけでは言い表せる者ではございません。
五段目
お気の毒に母上様は、梅若丸様の行衛を尋ね尋ねして、今はもう、武蔵と下総の国の境にあるすみだ川へとお着きになりました。ちょうど向こう岸へと渡る舟がありました。「もし、船頭殿、私も舟に乗せてくださいな」と声を掛けます。船頭はこの声に、「言葉を聞くと都の人だが、姿を見ると気がふれた者だ。妙なことを面白くやって見せろ、そうしなければ舟には乗せない」と答えます。奥様はこれをお聞きになり、「これこれ、船頭殿、たとえ都離れた東の辺鄙な所であっても、このような風雅な場所にお住みなのだから、優雅な心をお持ちくだされ。この時刻、今は川水に映る月をご覧なされ。風は波を起こしても、真実を照らす月を曇らすことはできないもの。そのように私の姿はどうあれ、心は狂っておりませぬ。それなのに、妙な振る舞いをせよとはつれない人じゃ。馬に乗らずに来たこの私、もう疲れ果てておりまする。ここは名所の渡し場でそなたは風雅な船頭殿、私は正気を失って騒ぐ様子は見せてはいるが、もはや日が暮れる時なのに、舟に乗れとは言わないで、妙な振る舞いいたせとは、情けを知らぬお人じゃな。とにもかくにも、私が乗れば舟の中が狭くなろうが、そこを何とか乗せてくだされ船頭殿。お頼み申す船頭殿」と頼みます。船頭はこの奥方の言葉を聞いて、「ああ、私が悪かった、お前さん。姿に似た優美さじゃ。今はソナタの力になろう、乗りなされ」と出しかけた舟を漕ぎ戻し手、乗れるようにしましたので、奥様は舟にお乗りになり、向こうの岸を見渡すと、川岸に植えられた木のもとに、人が多く集まっていました。
奥様は向こう岸の人の集まりを御覧になって、「これ船頭殿、あちらに人が多く集まっているのは、この私を待って、妙な振る舞いをさせて見ようということなのですか」と尋ねます。船頭はこの言葉を聞いて、「あれは大勢の人が集まって念仏を唱える大念仏というものでございます。この舟に乗っている人のほとんどはご存じないでしょう
。この舟が向こう岸に着くまでの間に、あの大念仏の言われ因縁をお聞かせ申しましょう。皆さん、よくお聞きなさい。事が起こったのは昨年の三月十五日、まさに本日に当たっています。年頃十二三歳の幼い人が、とても重い病になって、この川岸に倒れ臥していらっしゃるのを、この土地の人々が集まって様々に看病いたしましたが、ただ弱る一方になってしまし、もう今はの際と思われた時に、『あなたはどの土地のどういう方か、お話しください』と尋ねたところ、、その時に子の幼い日とは苦しそうな息を吐いて、『私は、都の北白川の吉田家の者、名は梅若丸と申します。人買いに攫われてこのような姿になってしまいました。都には母上が一人でおいでですが、この梅若の消息を尋ねてくる人がありましたら、私の身の上を語って伝えてくださいませ。亡き後は、道のほとりに墓の塚を築いて、墓所の標に柳を植えて、名を記した札を立ててくださいませ』と静かに仰って、とても殊勝に念仏を唱えられて、とうとう亡くなられてしまいました。この舟の中に都からの方もおいでのようですな。逆縁ではありますが、念仏を唱えてください、皆様。思わぬ物語をしているうちに舟が着きました。皆様岸へお上がりくだされ」と話しますと、舟の中の人々は、「さても不憫なことなことじゃ。逆縁ではあるが念仏を唱えよう」と言いながら、それぞれ舟から岸へ上がりました。
お気の毒に奥方様は、舟から上がらずに、舟の縁にもたれて下を向いたまま、ずっとお泣きになっていらっしゃいます。船頭はこの姿を見て、「心優しい女(おな)子(ご)じゃ。今の物語を聞いて、そのように多くの涙を流されるか。皆と一緒に舟から上がってくださいよ」と言います。奥方は顔を上げ、「お尋ねします、船頭殿、今のお話は、いつの出来事。その者の家は何と申された」とお尋ねになります。船頭は、「吉田とかいう家の梅若丸と言いました。あなたも都から来た人ならば、早く舟から上がって念仏をお唱えくださいよ」と話を繰り返しました。お可哀想に奥方様この話をお聞きになって、「これもし船頭殿、これまでその子のことを親類縁者や親が尋ねて来なかったのは当然のことなのですよ。というのは、私がその母親だから、やっと来たのです」と、今にも死んでしまいそうにお泣きになります。通りすがりの人もこの問答を聞いて、なるほどもっとよ、気の毒なと言って涙を流さない人はいません。
船頭は涙をこらえて、「先程までは話を聞いてお泣きになっていると思いましたが、あなたご自身のお嘆きでありましたか。どのようにお嘆きになっても、もう取り返しのつかないことでございますから、御菩提をお弔いなさい」と勧めませと、奥様は泣きながら舟からお上がりになって、塚のところに倒れ伏して、しみじみと語りかけるのがお気の毒でございました。「これ、梅若よ、そなたに逢おうそのために、都からここまで遥々と下って来たのじゃ。それなりに、そなたはもはやこの世に亡く、その墓の標だけを見るのじゃな。ああひどいこと、戦のもめ事に巻き込まれて生まれ故郷を離れ、東国で命を落とし、道のほとりの土となり、この塚の下に埋められている我が子がいる。どうかもう一度、生きていた頃のそなたの姿をこの母に見せておくれ。ああ、何とも思うにまかせない辛い世じゃなあ」と大きな声でお嘆きになります。土地の人達はこの母上の嘆きの声緒を聞いて、「とにもかくにも、念仏を仰いませ。亡き方もお喜びになるでしょう」と叩き鉦を母上に持たせて念仏を勧めますと、母上はやっとのことで起き上がって、逆縁ではあるけれど、それでも我が子の供養のためと聞くのだからと、鉦を鳴らして、「南無阿弥陀仏」と声を上げると、人々も一緒に念仏を上げました。母上はふと鉦を叩くのを止めて、「これ、皆様、幼い者の声で念仏が聞こえたのは、間違い無く塚の中からと聞こえました。ますます念仏を唱えてくださいな」と仰ると、土地の人々はこの言葉を聞いて一斉に自分たちの念仏を止めて、「お母さんだけお唱えください」と答えます。は笛はなるほどもっともなこととお思いに成り、さらに鉦を叩いて、「南無阿弥陀仏」と唱えられると、塚の中から幼い人の念仏の声がして、それと同時に梅若丸の塚の標の柳の陰から、子どもの姿が現れました。
母上は幼い子の姿が見えたのがあまりに嬉しくて、鉦と撞木をがらりと投げ捨てて、幼い子に抱き付こうとなさいますと、幼い子の姿はすぐさま消えて、何もありません。再びぼんやりと姿が見えましたのを、「そこにいるのは我が子梅若丸か」「母上様か」と、同時に声を掛け合いましたが、あるで陽炎や稲妻、水に映る月のようで、目には見えても手には取れず、手を触れようとすると、姿が現れたり消えたりしています。もはや東が明るくなって夜が明けていきますと、そこにはただ柳だけが残っています。母上はあまりの辛さ悲しさに、柳の木にしっかりと抱き付いて、「この世の名残にもう一度、姿を見せておくれ、やあ梅若よ、梅若よ」と塚の上に倒れ伏して、「私も一緒にそちらに連れて行けよ」とお泣きになられたところ、土地の人々の中から一人のお坊様が進み出て、「お嘆きになるのはもっともですが、お子様の菩提をお弔いなさい」と、優しい労りの言葉をかけました。母上は涙を止めて、「お坊様のお導きはとても有難いことです。今はもう嘆いてもドウしようもありません。亡き子の後世を弔ってやるために、私の姿を変えて尼にしてくださいませ」とお願いします。お坊様は、「たやすいことでございます」と仰って、塚のほとりで母上の豊かで美しい黒髪を剃り落として尼の姿にし、名を妙喜比丘尼と改めました。浅茅が原に庵室を建てて、花を摘んで仏前に供え、香を焚いて念仏を唱えていました。この浅茅が原にある池に月が映るのを御覧になって、この円満な月の姿こそ親子一緒にいる円満な悟りの姿であると一心に思って、西の空に向かって、沈み行く月を見て、梅若よ、さあ、私も一緒に行こうと言ってこの池に身を投げ、とうとう亡くなられてしまいました。この母上の御最期の有様は、ただ哀れとという言葉だけでは表せるものではありません。
六段目
さて、話は変わって、梅若丸と共に京の北白川の吉田の屋敷を抜け出て、途中の山中で病気になって梅若丸とはぐれてしまった粟津の二郎俊光は、梅若丸の行衛を四国九州へと尋ねましたが、その消息は全く知れません。それでは許に戻って、琵琶湖の大津の港を探してみようと、近江の国を目指して足を速めました。千鳥鳴くという篠宮河原を通りましたら、家を乗っ取った松井の源五定景の家来の山田の三郎安親が小鳥狩をしていました。俊光はこの様子をはっきりと見付けて、これぞ天の与えであると喜んで、急いで安親のいる谷底へと走り下りて、安親の首を討ち落としました。安親の家来たちは俊光を逃がすものかと追い掛けます。俊光があわや討たれるかというその時、山伏が一人やって来て、俊光を摑んで、空中高く飛び去りました。
俊光を摑んで飛び上がった山伏は、相模の国に名高い大山不動にと俊光を下ろして、「われは四国からの使いである・ここの不動尊に祈って願え」と言い置いて、姿はたちまち消えました。俊光はこの山伏の飛び去った跡を伏し拝んで、「梅若丸様が御存命か否かをお知らせください。それが叶わないものならば、この俊光の命を取ってください」と願って、最初の七日間はその場を去らずに立ったまま祈り、次の七日間は水を浴びて祈り、次の七日間は断食をいたしました。不思議なことに、これらの行の期間が満ちる二十一日目の明け方に、大地が震動し、草木が風に吹き乱れて、愛宕山の大天狗、讃岐の金毘羅大権現、大峰の前鬼一族など、大天狗に天狗たちが行衛知れずになっていた松若様を連れてきて「これ俊光よ、その法、主君に忠義な者であるので、松若を返しつかわすのである。松若の母も兄の梅若も、武蔵と下総両国の境であるすみだ川で亡くなってしまったのである。その方、松若の将来を末永く守護せよ」と言って、天狗たちは天へと上って行きました。お気の毒なのは松若様、この話をすっかりお聞きになって正体なくお泣きになります。俊光が、「づはこれから都へと上り、日行阿闍梨の許へ行ってお願いして宮中へ参内してこれまでのいきさつを申し上げた上出、お家の仇の松井の源五を討ち取って、その後に亡くなられた母上様、兄上様の菩提を弔いなさいませ」と申し上げます。眉若様は俊光の言葉をお聞きになり、「それが良い、そうしよう」と仰って、俊光を共にして、都を指してお出掛けになります。
松若様ご一行は都に到着され、日行阿闍梨に対面さって、これまでのできごとの伝えると、日行阿闍梨はお聞きになって、涙を流されます。「それでは、このことを申し上げに内裏に参ろう」とおおせになり、松若様を連れて宮中へと出掛けます。天皇様にこれまでのいきさつを細かに申し上げます。天皇様の御言葉が取り次がれ、長い間の艱難辛苦はさぞ残念なことと思うであろう。この度すべてを決着させた時の褒美として、殿上できる四位の位を与え、領地として下総の国を与えられました。松井の源五定景を討伐せよということで、屈強の武者五百騎を与えられました。松若様はこの仰せをありがたいこととして退出し、粟津の二郎俊光を討伐軍の大将として北白川の吉田の屋敷へと押し寄せて、戦始めの声を上げました。屋敷の中の松井源五定景は驚いて山道を指して逃げて行くのを、軍勢はすぐに捕まえて、その首を討ち落として捨てました。そののち、松若様は多くの武者を供として引き連れて、下総を指して下られました。松若様は下総の国にお着きになって、父母のために、また兄の梅若様のためにもと、十分に菩提を弔われました。松若様は下総で大奥の屋形を建て並べて、とても華やかにお過ごしになられ、そのめでたいことでありますと、その素晴らし母簡単な言葉だけでは言いつくせないものでございます。
参考1 謡曲『角田川』 以下は新潮日本古典集成(の伊藤正義校注)によります。
登場人物 シテ 狂女、 子方 梅若丸、 ワキ 渡し守、 ワキ連 旅人
構成とあらすじ
・渡し守の登場 隅田川の渡し守(ワキ)が旅人を待ち、また大念仏の行われることを告げる。
・旅人の登場 旅の男(ワキ連)が都より下り、舟に乗ろうとする。
・渡し守・ワキ連(旅人)の応対 男は後方のざわめきが都から来た狂女のせいだと告げ、渡し 守は狂女の到着を待つ。
・狂女の登場 狂乱 狂女が人商人に拐かされたわが子を慕って狂乱、都より尋ね求め て隅 田川に到る。
・狂女・渡し守の応対 渡し守に狂いを求められあ狂女は、川面の都鳥を見て遥かに恋しき人 への思慕の身を業平の東下りに重ね合わせて乗船を懇請する。
・渡し守の物語り 旅の男は対岸のざわめきを不審し、一同を乗せた渡し守は、船を漕ぎつつ、 人商人に拐かされた梅若丸の死とその大念仏のことを物語る。
・渡し守・狂女)応対 船が着岸しても狂女は下船せず、渡し守が語った梅若丸が我が子である ことを確認して絶望する。
・狂女の詠嘆 塚の前に導かれた狂女は、愛児の無慚さに慟哭し、無常の悲嘆に昏れる。
・狂女の念仏 念仏を勧められた狂女は、人々と共に鉦鼓を打ち鳴らし念仏する。声の中に梅 若丸の念仏の声が聞こえる。
・狂女の嘆き 母ひとりの念仏に亡霊となった子方(梅若丸)が姿を現すが、かき抱くことの出 来ぬ悲しさの中に、草茫々の隅田川の夜明けとなる。
参考2 梅若塚のほとりに梅柳山木母寺があります。同寺のホームページから御案内します。
〇宗旨・天台宗 〇山号・梅柳山 〇寺名・木母寺(別名 梅若寺)
〇本尊・慈恵大師(別名 元三大師) 〇総本山・比叡山延暦寺
木母寺は平安時代中期の貞元二年(九七七)天台宗の僧、忠円阿闍梨が梅若丸の供養のために建てられた念仏堂が起源で、梅若寺と名づけて開かれました。
当寺に今も伝わる梅若伝説は、平安時代、人買にさらわれて、この地で亡くなった梅若丸という子供と、その子を捜し求めて旅に出た母親にまつわる伝説があります。この伝説を元にして、後に、能の隅田川をはじめ歌舞伎、浄瑠璃、舞踊、謡曲、オペラなど、さまざまな作品が「隅田川物」として生まれていきました。この隅田川物を上演する際に、役者が梅若丸の供養と興行の成功ならびに役者自身の芸道の上達を祈念して「木母寺詣」を行ったことから、芸道上達のお寺として広く庶民の信仰を集めるようになりました。
毎年、四月十五日は梅若丸の御命日として、梅若丸大念仏法要、古典芸能である「隅田川」の芸能奉納及び梅若忌芸能成満大護摩供を執行します。
【梅若念仏堂】このお堂は、梅若丸の母、妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設したものであるといわれています。四月一五日の梅若丸御命日として、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供を開催します。
【梅若塚】能・歌舞伎・謡曲・浄瑠璃等の「隅田川」に登場する文化的旧跡です。
貞元元年(九七六)梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養した塚です。江戸時代には梅若山王権現の霊地として信仰されていました。
古浄瑠璃すみだ川 前編(初段~三段) 福福亭とん平の意訳
すみだ川 前編(初段~三段)
初段
その時をいつかと考えますと、本朝第七十三代の堀河天皇の時代と伺っております。都の北白川に吉田の少将是定様という位の高いお方がいらっしゃいました。是定様は身分が高いことを誇ることはせず、心には五戒を保って、振る舞いは神への信心を大切にしていて、詩歌管絃の多くの芸能にも通じていました。その名声は世に響いています。お子様を二人お持ちです。ご長男を梅若丸と申し上げて、十一歳にお成りです。次のお子様は松若様と申し上げて、九歳におなりです。お二人ともお姿は花のように美しく、一言ごとに仰る可愛らしさはに、ご両親の可愛がりようはこの上ありません。
あるとき、是定様は奥様をお呼びになって、「これ、そなたよ、お聞きなさい。しみじみと考えると、人grんの一生というものは、風の前の雲と同じで定めないもの、命は火打ち石の火花のように一瞬のものです。そこで、二人いる子どものうちの一人を出家させて、後世の菩提を弔わせようと思うのだが、どうであろう」と仰います。奥様は「仰せはごもっともです。二人の内の一人を出家にとの仰せですが、梅若は長男ですから、吉田の家を継がせましょう。松若よ、そなたはまだ若年であるから、学問をさせるために比叡の延暦寺へと上らせることとする。栴檀は二葉より芳しよ言う通り、ソナタには才があるのであるから、十分に学問を究めて、吉田の家の名を高くせよ」と仰って、山田の三郎安親を世話役としてお付けになりました。山田は松若様のお供をして、比叡山延暦寺が吉田家の縁ある御寺でしたので、日行阿闍梨の一番のお弟子になられて、毎日少しも怠らず学問をなさいましたので、生まれ付き利発なお生まれえしたので、その年の暮れには、仏教にも仏教以外のことがらに通じました。ですから、松若様は伝教大師様の生まれ変わりとしてその才を崇めない人はいません。
このようなことで松若様は、あらゆる学問に優れていることは比叡山中に知れわたりましたので、いつの間ニか、自分を誇る心が出てきたのか、仏神の罰が当たったのでしょうか、どこからとも判らず山伏が一人やってきて、「さて、どうです、松若殿はきっと連日の学問に心が疲れておいででしょう。私の家に来て、気持ちを休めなさい」と言って、そのまま松若様を摑んで空の彼方へと飛んでしまいました。山の人々は驚いて、様々の議論をいたしましたが、相手は天狗のことですので、その行衛はさらに知れません。日行阿闍梨が驚いて、「どうしたらよかろう」と仰いますと、お付きの安親は「私はまず吉田へと帰って、このことを報告してきます」と言って、阿闍梨に下山の許しを得て、北白川の吉田の屋敷に帰って、是定公にお目に掛かり、比叡山で松若様が攫われた状況をお伝えしました。是定様も奥様も、「これはいったいどうしたことか」と言って、悲しみに叫びました。しばらく経って是定公は、涙の合間に、「松若の定まった運命とは良いながら、こんなことが起こると前もって知っていたならば、松若を比叡山に上らせることはしなかったものを。可哀想な松若よ、恨めしい憂き世じゃなあ」と繰り返し口になさってはお泣きになられました。
お気の毒な是定様、近頃は風邪のご様子と仰られていましたが、松若様が行き方知らずになったという知らせをお聞きになってから、食事を召し上がることがなくなって、だんだんに体が弱られてしまいました。奥様や梅若様が病床近くにいていろいろと看病をなさいましたが、御寿命となる病気でしたのでしょうか、病は重くはなりますが回復の兆しはありません。是定様がもはやこれまでと思われる時に、弟の松井源五定景、家来の粟津六郎俊兼、山田三郎安親をお呼びになり、「これ人々、我はこの世の縁が切れて、もはやこれまでだ。梅若はまだ幼い。十五歳になったなら宮中へ参らせて、吉田の家を継がせてくだされ。それまでの梅若の養育は弟の定景に任せる。粟津六郎と山田三郎の二人の家臣は定景に力を貸して、梅若を盛り立ててほしい。さて、梅若よ、この父がこの世にいなくても、母に孝行をして立派に成人して、吉田の家の名を挙げてくれよ。今はこれまで、奥よさらば、名残惜しい梅若よ」と言い遺して、一艘声を挙げて念仏を唱えて、はかなく亡くなられてしまいました。
奥様も梅若様も、是定公の逝去に何もすることができず、是定公を恋い慕い、この上なく涙を流されました。奥様が、「はかないことです。この殿様と美濃の国の片ほとりで出会って親しくなって以来、いつもお傍にいた私なのに、殿様は冥土への旅をとぼとぼとお一人で、さぞ寂しくいらっしゃるでしょう。私も一緒にお連れください」と、亡きがらに抱き付いてお泣きになられました。そうは言ってもできないことですので、遺骸を涙と共に野辺に送って火葬に付して、屋敷へ帰って葬儀を懇ろに弔いました。梅若君の親子の別れに奥様の夫婦の別れが重なって、並々ならないご一家のお嘆きに、奥様と梅若様の心の内は、哀れという言葉だけではとても言い表せるものではありません。
二段目
是定様が亡くなられた後、奥様や梅若様は是定様の葬儀をされて、七日七日の忌日ごとに菩提を弔われていらっしゃいました。亡くなられたのが昨日のように思われましたが、月日はいつの間ニか過ぎて行き、早くも三年となり、梅若様は早くも十三歳におなりになりました。父上の是定様の菩提を明け暮れ弔われるお気持ちは感心なものでございます。
お二人はこのようですが、一方、是定公の弟の松井源五定景は、しみじみと将来を考えると、梅若が十五歳になったあんる、家を継ぐ為のお目見えをさせたなら、自分はこの家の家臣として一生日陰の身となって暮らすのも情けない、いっそのこと梅若丸を亡き者にして、この吉田の家を自分が序で、花やかな暮らしを使用との悪巧みをするのは恐ろしいことでございました。松若様のお付きであった山田三郎を近く呼んで、「これ、安親殿、あなたを頼りにすることがござる。お力をお貸し下さるならお話しますが、いかが」と言いますと、山田三郎はこれを聞いて、「どんな事でも承ろう」と言います。定景は喜んで、「格別の事ではござらぬ。梅若丸を殺して、この吉田の家を我が継いで、貴殿にも多くの褒美を与えようと存ずる。山田殿いかが」と言います。山田三郎はこの言葉を聞いて、「お声が高いですぞ、我がお味方仕れば、誰に恐れがありましょうか。若君付きの粟津の六郎俊兼は、大の酒飲みでありますから、酒をたくさん飲ませて我々の考えを細かに申し聞かせて、それを受けないならば、その場で討ってしまえば差し支えがござるまし」とこたえましたので、定景は答えを聞いて、「それなrば、貴殿はお帰られよ。後は私がいたしましょう」と言って、色々な酒の肴を用意して。粟津の六郎に使いを立てます。六郎はすぐさま参って定景に対面します。
定景は、やってきた粟津の六郎俊兼には何も言わず、まず真っ先に酒を次々と勧めておいてから人払いをして、「これこれのことを考えているから、味方になってほしい」と申します。俊兼は聞いて驚きましたが、そしらぬ様子で、「ああ、恥ずかしいことよ、私がどう思うかを試そうとなさるのか」と言います。定景は聞いて、「なに、どうして噓を申しましょうか。山田三郎殿も同じ気持ちで、たった今お帰りになったばかりですぞ。ご承知いただけませんか」と言います。俊兼は居住まいを正して、「これ定景殿、梅若様はあなた様の甥ではありませんか。この俊兼はそのようなことを聞くも耳の穢れ」と太刀を抜いて定景を斬ろうとします。定景は命からがら逃げます。俊兼は追いかけてここで定景をうとうか、いや待てよ。山田三郎めが後ろから攻めてくるかもしれないから、先に奥様あ梅若様にこのことをお知らせしようと、急いで吉田の屋敷へと帰りました。俊兼はお二人の御前に参って、涙を流しながら、「松井源五定景殿が山田の三郎と心を合わせて、梅若様を亡き者にして、吉田の家を我が物にしようという企みをなさり、私めにまで味方をせよよ言われたましたが、私はその場を蹴って帰って参りました。彼らは必ず夜討ちにくるでしょう。お支度ください」と、ため息混じりに嘆きました。奥様と梅若様は是をお聞きになって、これはいったいどういうことなのかと、気を失うばかりにお嘆きになります。俊兼はお二人のこの姿を見て、自分がしっかりしなければいけないと、まず奥様を逃がしてしまおうとお供をして、西坂本にいる伯父の大夫を頼ってそこにお隠しして、それから吉田の屋敷へと引き返して、侍や中間百人ほどと一緒になって、攻めてくる敵を待ち受けました。
さて一方、松井の源五定景は、粟津の六郎俊兼に脅されて、まだ震えが止まりません。山田の三郎安親を呼び出して、「俊兼は味方にならなかった。どうしたらよかろうか」と言うと、山田はこれを聞いて、「時が経ってはよろしくない」と、三百余りの軍勢で北白川の吉田の屋敷に押し寄せて、戦始めの鬨の声を挙げました。屋敷の内では、すでに予想をしていたことなので、俊兼が櫓に駆け上がって、「なに、攻め寄せて来たのは定景の軍勢と思うぞ。無駄な戦をいたすでなく、さっさと引き揚げよ」と答えます。その時に、攻め寄せた山田の軍の中から武者が一人進み出て、大声で名告ることに、「ただ今ここに進み出た我を誰と思うか、定景公の家来の兵庫の介とは我のことだ。侍とは主を変えて生き抜く者じゃ。貴様ら降参してこちらに付け」と叫びます。俊兼はこれを聞いて、「お前は三代に渡って大恩受けた主君を忘れて、その方に敵対するとは、狐武者とでも言う者じゃ。この矢を受けてみよ」と言いながら、弓をきりきりと引いて射ます。哀れにも、その矢は兵庫の介の胸にはっしと命中して、兵庫の介ははかなく死んでしまいました。
この矢を戦の始めとして、敵味方が入り乱れて、激しい戦になりました。とは言っても、攻め寄せた定景方は大勢で、屋敷方は早くも皆討たれてしまいました。俊兼は梅若様のところに来て、「早く落ち延びなさいませ」と申し上げます。梅若様はお聞きになって、「そなたは決して腹を斬って死んではならぬ。早く抜け出て我のもとへ参れ」と仰って、粟津の三郎を引き連れて裏の門から屋敷を出られました。俊兼は櫓に上がり、「これ、寄せ手の奴ども、騒がずに静かに聞け。梅若様も切腹なさたt。勇猛な武者が腹切る様をそなたたちの手本にせよ。腹はこう切るものぞ」と良いながら、鎧の上帯を切って捨て、腹を切るように見せかけて、裏の門から抜け出ようとするところを、大勢が攻め寄せて捕まえられてしまいました。俊兼の心の内は、無念という子四羽だけでは表せないくらいでした。
三段目
まことに無慈悲なことに松井の源五定景の家来たちは忠義な粟津の六郎俊兼に縄を掛けて、定景の前に引き出します。定景は俊兼を見て、「これ俊兼、貴様は我に心を寄せていれば、このような縄目に掛かることもなかったであろうに。さ、梅若は死んだのか、それともどこかへ逃げ延びさせたか、素直に言ってしまえ。どうじゃどうじゃ」と言いますと、俊兼はこの言葉を聞いて、「なんだ定景、おのれは是定様から受けた御恩を忘れて、このような反逆の悪事を行うのか、この報いはすぐさま貴様に向かうであろう」と言います。定景は大いに腹を立てて、「こやつはとにかく死にたいと見える。さっさとこの世に別れをとらせてやれ」と明治、家来は「畏まりました」ということで、白川のほとりへ俊兼を引き出して首を斬り、獄門に掛けて曝しました。その首に添えられた札には、「この者は悪事を企みしゆえに斬首し、ここに曝すものなり」と書かれましたのは、哀しいことでございました。定景は俊兼の曝し首を確かめに来ました。異議なことにこの首が目を見開いて、「これ定景、悪心など持たないこの我のことをこのように札に書いたが、三年の内に貴様らをこのようしてやろう」と言うや否や、首は天へと上がって行きました。定景はぶるぶると身震いをしながら自分の屋形へと帰りました。
さて粟津の六郎俊兼のことはここまでです。一方、梅若様は、俊兼の子の粟津の二郎俊光を供として、母である奥様の逃げ延びた西坂本へ行こうと、山道を辿って逃げて行きます。道の暗さは真っ暗で、あちこちと道に迷いましたが、日が昇ってだんだんにあたりが白み始めた明け方に、俊光は風邪を引いたようで、一歩も進むことができなくなって、木の根を枕にして倒れてしまい、もはや最期の様子に見えました。梅若様はこの様子を御覧になって、「これ、俊光よ、そなたの父は生き神様とまで言われた者であるのに、その子がこのように情けない姿になるのか。どうか母上の出でになる所まで、何とかして連れて行ってくれい。そなたが死んでしまたtら、この私はいったいどうなるのじゃ」と、この上なく涙を流されます。時が経ち、もう日が昇り、あたりがはっきり見えるようになりましたので、梅若様は谷に下って水を探して、衣服の袂に水を含ませましたが、谷からもといた峰までははるかに離れていましたので、梅若様は道に迷って獣道に入って迷ってしまって、あちらこちらと歩いていらっしゃいました。そのようなところへ奥州の人買い上人がやって来て、「これ、若君様、私が御案内いたしましょう」と無理矢理梅若様の手を引いて、遥か離れた遠い土地へと足早に立ち去ってしまいました。梅若様のお気持ちはなんともお気の毒でございました。
横たわっていた俊光は目覚め、体を起こして当たりをみれば、梅若様はおいでになりません。それでは若君は坂本へとおいでになったのかと、坂本へと急いで行きました。奥様はやって来た俊光の姿を御覧になって、「これ、俊光、梅若丸はどうしたのじゃ」とお尋ねになります。俊光はこの言葉に、「はい、私めは白川から梅若様のお供をしてこちらへ参る途中で風邪気味となって、しばらく横になって眠ったときに、梅若様を見失いました。もしかしたら梅若様は獣道に踏み入れて迷っていらっしゃるのかもしれません。探して参ります」と奥方の御前から下がって、これまで来たの山道を谷底まで隈無く探しましたが、梅若様の行衛は全く判りません。俊光は、このまま梅若様が見付からずに奥様のところへもどれば、奥様はさぞお嘆きになるであろう、梅若様の行衛をどこまでも探そうと考え、そのまま日本国中を探す旅に出てしまいました。その思いは哀れなものでございました。
徳にお気の毒であったのは、若公梅若様の身の上でございます。商人に連れられて、大津の打出の浜を過ぎて瀬田の橋を渡り、東国を指して足を速めさせられます。梅若様は商人を御覧になって、「どちらへお出でになるのですか。山の中には家来の俊光を置いたままです。あなたは私を西坂本へ連れて行ってくださらないのですか」とお尋ねになります。商人は聞いて、「うるさいことを言う餓鬼だな、早く歩け、急げ」と手を引っ張ります。梅若様はこれを聞いて、「さてはお前は人さらいだな。そんなこととは知らなかった」と行って、腰の刀に手を掛けて切ろうとすると、商人はこの手を取って梅若様を組み伏せて刀を奪い取り、梅若様をさんざんに打ち叩きます。おかわいそうにまだ十三歳の梅若様は、大の男に押さえつけられて、「これ、商人さん、私は都の者なのです。東へと連れて行かないで、亜子へ連れ帰って下くださいよ、お許しください、商人さん」と、涙を流されてひどくお泣きになります。商人は「勝手なことを言う小僧だ」とさんざんに打って引きずって、「さっさと歩け、歩け」と責め立てるのは、地獄で獄卒が罪を犯した亡者をを痛めつけるのと比べても、この商人の邪慳なやり方には及ばないほどです。このようにして梅若様を引き連れて行くと、すみだ川に着きました。
お可哀想に梅若様は、慣れない旅に加えて、杖で酷く叩かれて、足のあちこちが傷だらけになて、赤い血まみれになってしまいました。もはや一歩も踏み出せなくなってしまいましたので、すみだ川の岸に倒れて横たわっていらっしゃいます。商人はこれを見て、「どうして歩かないのだ、急げ急げ」と引っ張ります。お可哀想に梅若様は、左を下にしてがばと倒れられます。そけぼうとしても声も出ません。商人はますます腹を立てて、死んでしまえとばかり梅若様を叩き伏せて、そのまま放り出して東へと下って行ったのは、つれない仕打ちと見えました。このような気の毒な仕打ちに遭っている時に、土地の人々が集まって、梅若様を見て、「由緒ある方とお見受けします。どちらの方でいらっしゃいますか。お名前をお聞かせください」と言います。梅若様はお聞きになって、この上なく苦しい様子で息を吐いて、「情けある優しい人たちですね。何をお隠しいたしましょう。都の北白川の吉田の少将是定の長男の梅若丸とは私のことです。人買い商人に欺されて、このようになり果ててしまいました。私がここに連れ去られたのだ、都においでの母上様、さぞかしお嘆きのことでありましょう。ですが、今はもうどうしようもありません。私が空しくなりましたら、道のはたに墓を作って、私の墓の標として柳の木を植えて、名を記した札を立ててくださいませ。ああ、お懐かしいお母様」という言葉が、最期の言葉となって、十三歳という年の三月十五日に、はかなくなられてしまいました。この梅若様の御最期は、お可哀想という言葉だけでは言い表せるものではございません。
さざれ石 福福亭とん平の意訳
さざれ石
さて、我が国の人間天皇の始めの神武天皇から十三代に当たる天皇様を、成務天皇と申し上げます。この天皇様の御世は、この上ないすばらしいものでいらっしゃいます。天皇様は年が若くいらっしゃる時は、左右の大臣が代わりに政務をお執りになりましたが、成人された後には、政務を自らなされる賢い方になられました。おかげで国の作物も豊かに実り、人々の暮らしも豊かで、国中は静かに治まり、何の心配もなく穏やかでございました。
そのような時、この天皇様には男女合わせて三十八人のお子様がいらっしゃいました。三十六番目の御子様は、姫宮でいらっしゃいました。数えられないほど多くの御子様の末の姫でありますので、そのお名前をさざれ石の宮と名付けられました。その御姿の美しいことは、この上ありません。その御姿はどこにも非の打ち所がありませんので、天皇様はとても可愛がられ、人々に大切に大切にお世話をさせました。
その後、姫様は成長なさって十四歳になられましたので、時の摂政左大臣のもとにお嫁入りされることに決まりました。そこで、日を定めて、行列の車を美しく連ねて、摂政様の元へとお嫁入りになられました。こうしてさざれ石の宮様は、摂政様の奥様となられました。このようにして、国中の人々は宮様をとても敬い慕いました。また、天皇様がこのご一家を他に並ぶものがいないほどに重用されました。
このようにして日々が過ぎてゆくうちに、さざれ石の宮様がお思いになることには、しみじみと世の中の移ろいを考えると、生きている者が生き長らえるということはない。命ある者は必ず滅びるということから流れられる人はない。かたつむりの角の上のような小さい世界で何を争い、石を打ち合わせ出る一瞬の光のように、短い人生の時に輝く月を楽しんでも、月は夜明けの雲に隠れるように、消えてしまう。一切衆生の生死輪廻するする世の尤も尊い存在である釈迦牟尼如来様でも,生死の掟らは逃れられなかった。一呼吸する短い時間にも人はどうなるかわからない世の中に、何もしないままで来世の王城を願わないで、命が終わる時にただしおしおと力なく一人で冥土に行くときに、いくら位にあっても、役人も一般の人も誰も付き従う役人もことはできない。冥土で地獄の獄卒たちに責められた時に、過去の罪を反省しても取り返すことはできない。私はひたする後世の往生を祈ろうとお思いになったのは、世になく尊いことでございました。
この宮様のお気持ちを天皇様がお聞きになって、夫の摂政様をお呼びになって、お確かめになったところ、摂政様はさざれ石の宮様が深く後世の往生を願っておいでのことをお答え申し上げましたので、多くのお子様の中で、さざれ石の宮様がこのように後世を願われるのは、めったにない尊いこととお思いになりました。
この後、さざれ石の宮様は、浄土は四方に多くあるけれども、取り分けて女性が後世を願うのにふさわしい浄土は、東方浄瑠璃世界であると思い定められて、いつも気を緩めることなく、「南無瑠璃光如来」と唱えられます。朝夕にご自分の手で仏前に香と花をお供えになって、薬師仏の御経を十二巻ずつお読みになります。
ある夕暮れのこと、さざれ石の宮様が月の出る東の方をじっと御覧になって、私が来世に生まれる浄土はあちらであるとお思いになり、少し不安な様子で力なくお立ちになっていると、そこに空中からひとかたまりの白い雲が降りてきました。妙なことと思ってそちらを御覧になると、黄金でできた宝の冠を頭に載せた官人が宮の近くへやって来て、さざれ石の宮様に瑠璃でできた壺を捧げ、「私は、東方浄瑠璃世界の薬師仏のお使いの宮比蘿大将と言う者です。この壺の中には良い薬があります。これは、不老不死の薬です。お召し上がりになれば、お年も取らず、嫌なお気持ちになることもなく、いついつまでもお若い盛りの御姿で、日々をお過ごしになることができます。今日からはますます信心に力を入れて、朝夕のお勤めを怠ることなく、薬師様を信じなさい」と言って、たちまちそのお姿を消してしまいました。
さて、さざれ石の宮様はこの瑠璃の薬壺を受け取られて、「ああ、ありがたいこと、この年月薬師様をお祈りしているお蔭ですね」と三度高く捧げて、いただいた薬を口にされてみると、その味のよろしいことは、この世に譬えるもののないほどの佳い味わいでした。
その後に、宮様がこの薬壺をじっくりと御覧になると、青白い色の梵字が書かれていました。宮は妙だなと思ってその文字を読み解いてみると、和歌でありました。
君が世はちよにやちよにさざれいしのいはほとなりてこけの生すまで
(あなたの御寿命は千年も八千年もというように、いついつまでも続きます、小さな小石が寄り集まって苔の生える大きな大きな岩となるまでの長さです)
とありました。これは薬師如来のお詠みになった歌です。さざれ石の宮様は、ああ、ありがたい、それでは、薬師如来様の御恵みとしてこのような佳い薬をくだされた、ありがたいことよ。しかもお歌の中にこのように私の名を詠み入れてくださるとは、この上ないことですとお思いになって、その後、お名前を「さざれ石の宮」から「いはほ(巌)の宮」と改められました。そして、それから後、宮様の薬師様を念ずる心はますます深くなりまして、そのお心はこの上ない尊いものでございました。
こうしていはほの宮様は日々を暮らしていらっしゃいましたが、その間、少しも悲しい思いをすることもなく、少しも変わらない若々しい姿で、豊かに楽しく過ごしていらっしゃいました。ということで、この宮様の御寿命が長くいらっしゃったことは、全部で百余歳になりました。その期間の代々の天皇様をここに書きますと、
成務天皇、仲哀天皇、神功天皇、応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇、清寧天皇
合わせて十一代の天皇様の御代の間を通して、少しも変わらない御姿で元気に過ごされたのはめでたいことでございました。薬師如来様は、宮様の所へ時々にお出でになりまして、浄土の素晴らしい様子をたくさんにお説きになりました。
こうして年月が過ぎて行きまして、ある年の秋の始めのことでしたが、いはほの宮様は仏前に向かわれて、お灯(あか)りを上げて読経をされ、結びに薬師如来の真言を唱えますと、もったいないことに薬師如来様が突然に輝く姿で御降臨され、宮様に向かわれて、「どうなのですか、あなたは今日まで何を考えてこのような穢れ多い世界に気持ちを遺しているのですか。仮に何事も叶う天皇の位にいるとしても、人間としての楽しみはほんの少しのことです。その上、いろいろな苦しみに囚われることは次々とあります。こんないやな世界の苦しみを身に受けて、何ができましょうか。本当に頼り無いことです。この地でつらいことに遭うよりも、早く私の浄土においでなさい。お連れしましょう」と仰いました。その御声はとても尊く、心地良かったので、宮様は、この御言葉をありがたくも、また、もったいなくも思われて、ただ喜びの涙をお流しになるだけでした。
しばらく後に薬師如来が落ち着いた声で、「さて、私が住む浄土の浄瑠璃世界の様子をおおよそお話ししよう。まず、浄土の土地は皆瑠璃で出来ている。銀の垣根、金の瓦、垂木が瑪瑙と珊瑚で出来た建物が並び建っていて、八十の城、三十の城門、五十の宝塔が建ち、七宝宝珠をちりばめていて、朝日夕日の光に輝く建物が並び、きらきらと光っている。その世界の中にそなたを連れて行こう。浄土は七宝で出来た蓮華の上に、玉の宝殿をきらびやかに建て並べておいた。その建物に銀の瓦と金の扉を付けてある。建物には玉の簾、うちわ形の金属製の飾り、美しく垂らす飾り、垂らした五色の布が風に靡いてゆらゆらと揺れている。そして、きらきらしい光に満ちた錦の衣に身を飾って、衣冠をきちんと漬けた菩薩たちが私の左右に生前と座している。そしてまた、十二神将はその座の左右に分かれて立って、この世の仏道に妨げをする魔王を退治しようと、常にwが浄土を守っているのである。その浄土で味わう様々な食物は、昼夜いつでも食することができる。何事もあらゆる事が心のままに叶う世界であるのだから、そなたはどうして、いつまでもこの世界にいて無駄な時を過ごしているのだろうか。今はもはや、そなたの身を私の浄土に移して、この上無い楽しみを得させよう」と仰られて、宮様をその身のままで導き、薬師如来といはほの宮様は白雲にお乗りになって、東の浄瑠璃浄土を指して飛んで行かれたのはまことにありがたいことでございました。
さて、その後に、世間の人々はこのいはほの宮様が浄瑠璃世界に移られたのを見て、このようなこともあるものなのだな、本当に素晴らしい宮様でありましたなと、宮様の去って行った東の空を拝んで、感動の涙を流さない者はいませんでした。この一連のことをよくよく考えてみると、宮様がいつまでもお年を取った姿にならなかったのは、以前に不老不死の薬を口にされた効能であったということです。はるか彼方のこの代が起こった昔から現代に至るまで、聞いたことも見たこともない出来事でございました。
この話を見聞きする人は、朝夕、「南無薬師瑠璃光如来」とお唱えなさるのがよろしいのです。
金剛女の草子 付、金剛醜女の語 福福亭とん平の意訳
金剛女の草子
昔、中天竺の大王の名を臨汰大王と申し上げます。この王には一人の姫がおいでになります。その名を金剛女と申し上げます。この姫の美しくいらっしゃることは、まるで、晴れた空にひとひらの雲が浮かんでいる中から、十五夜の満月が顔を出したようとも、また、朝の雨に濡れた花のようとも言え、普通の人が思い及ばないほど、物に譬えようのない美しさでした。
ある時、東天竺、南天竺、西天竺、北天竺、この四天竺の大王たちが姫の評判をお聞きになって、心の中に姫を妃に迎えたいとお思いになりました。一方、臨汰大王の方でも、これほどに美しい姫を誰も妻にと望んでこないのは妙なことだとお思いになっているところでした。そこに四天竺の王から、同時に勅使がやって来て、姫を王妃として迎え取りたいという申し出がありました。臨汰大王は勅使が来たことをお聞きになり、四方の大王からの勅使が月も日も時も全く同じ時到着したことは、誰を姫の相手にするかという判断が下せないということで、「御返事はこちらからいたしましょう」として、それぞれの勅使をお返しになりました。
その後、四方の大王は、もう一度御返事はどうなのですかと尋ねようとしましたが、吉日についてはいずこも違いはなく、自分にとっての吉日は他の人にとっても吉日ですので、四方の大王からのお使いは、またも同じ日の同じ時に到着いたしました。臨汰大王は驚いて、「さあ、どうしたらよかろうか」と、大臣と公卿を呼び集めて協議をいたしました。一人の大臣が、「これは厄介な御返事になります。どなたか一人に承諾の返事をすれば、他の三人がお怒りになるでしょう。四方共に返事をするという約束は守らなければなりませんので、この期に及んでは、結論として、四方の大王にそれぞれのお得意の能力をお尋ねになって、最も優れたお力をお持ちの方に婚姻を承諾されるのが宜しいでしょう」と仰られましたので、一同は「それが一番の方策です」と納得しました。「そうきまったなら、そのように大王に申し上げましょう」と言って、それぞれの国の使いはすぐさま立ち帰りました。
四方の大王は返事をお聞きになり、「それはたやすいことである。自分より優れた能力のある大王は五天竺にはまずいないであろう」と、それぞれに勇み立って、力強くそれぞれの能力をお話になりました。
まず一番は東天竺の大王で、「私は、ありとあらゆる人々が苦しむ病を治す薬を持っている。たとえ亡くなって七日が経った人でも、この薬を注ぎかければ、たちまちに蘇り、因縁を好転させて寿命が延びること、三千年である。これに加えて、病になる前にこの薬を服用すれば、寿命の長い伝説の東方朔の寿命に増して、一万歳の寿命を保つのである。この故に、我が名を施薬王と言うのである」と述べましたので、聞いている人々は、「この王の能力に優った方はまさかいないであろう」と言いました。
*また、南天竺の大王は、「我は、手の中に小さい車を持っている。この車には、一人も二人も、百人も二百人も乗れ、さらに一万人も百万人も、千万人乗っても狭いことも広過ぎることもない。車が目的地まで行くのは瞬時である。上はこの世の高い天の極まり、下は地獄の底まで行け、火の中や水の底を通るにも、何の障りも無い。この車に乗れば、冥土の使いも追いつくことができず、もちろん、敵が近寄ることはない。年取った者は若返る。この車に過ぎた宝はないであろう。であるから、我の名を飛行自由王と言うのである」と述べると、人々は、「これも他に比べるものがないなあ」と言いました。
また、西天竺の大王は、「手の中に鏡を持っている。この鏡を当てて見れば、上は天の一番上、下は地獄の一番の底まで、そのほか、時間では計り知れない過去の姿から未来のはての姿まで、また、人の心の内で、五臓六腑の色や言葉に表すことことのできない心に秘めたことや生まれながらの心の善し悪しまで、すべて明らかに見える鏡である。これだけでなく、この鏡の面に向かう人は、生きては清らかな世界が見られ、死後にはそのまま極楽に生まれることは、まことに鏡がその姿を正確に映す様に、疑ひは全く無い。それによって、我が名を明達王と言う」と仰ると、「これも同じ価値を持つ素晴らしい宝である」と、人々が言いました。
さて次の北天竺の大王は、「一本の指先から、多くの宝が湧き出て、世界中に満ちあふれ、様々の美味・珍味を揃えることができるのはもとより、心の内に秘かに思うことは、この一本の指で叶わないと言うことはない。もう一本の指は、世界の中心にそびえる高い須弥山を芥子粒よりも軽々と扱い、世界を覆う海の水を一滴の露よりも簡単にまとめ、この広い五天竺も指の上に載せて、空を飛ぶことができるのである。この能力を持っているので、我の名を福転王とも、また、力士王とも言うのである。であるから、この二つの宝の指は、人々の願いを必ず叶え、我が揃えた様々の美味・珍味は、口にする者には不老不死の薬となり、その者は必ず清浄な天上界に生まれるのである」と仰ると、人々が「これもまた同じ力がある」と言いますので、臨汰大王はお聞きになり、四天竺の大王はどなたも同等の力をお持ちなので、どうすることもできなくなって決めることができず、とりあえず四天竺のお使いを国に返しました。
こんな結論の出ない求婚話があった秋の半ばのことです。金剛女は乳母を誘って、御殿の西の苑にお出ましになって、「尾花波寄る秋風」という句を口ずさんで、「どうして尾花が一方に横に伏すのを波寄るというのかしら」とお尋ねになります。そこで乳母が、「波というものは、もやもやと一方に寄せて来て、またもやもやと元に戻って行くのを、波寄ると申します」とお答えすると、姫が「その波という物は、どこにあるのです」と仰ると、乳母は、「波は水にあるものです。御覧ください」と言いながら、この苑の千尋の沢というところに姫を誘って、沢の水をお見せします。その時に沢の水が急に高く波立ちました。乳母が「あれを御覧ください。白く立っている波は、尾花が風で一方に伏す様子に似ていますよ」と申し上げます。姫がその言葉で沢の水を御覧になると、波の間から大きな竜が一頭現れて、姫を難なく捕らえて、水の底へと入ってしまいました。
乳母が「これはどうしたこと」と騒ぎましたが、どうしようもなくて、すぐにこのことを臨汰大王に申し上げると、大王はとても驚かれて、その苑にお出ましになり、すぐに千尋の沢を掘り返させましたが、いろいろな小さな竜が多くいるだけで、大きな竜はいません。姫の亡きがらもありませんので、何の手がかりもなくそのまま御殿にお帰りになって、がっかりして涙にくれてお嘆きになることはこの上ありません。
これはさておき、四天竺の大王たちは、「我々に持っている力について尋ねておいて、誰も婿に取らないとは残念である」との話し合いをしました。「返事をしない特別の理由もないであろう。四方から中天竺へ押し寄せて、臨汰大王を攻めてしまおうではないか」と決め、それぞれの国で兵を集めて、もはや出陣しようといたしました。そこへ東天竺、南天竺から使いが来て、「四方の大王たちお集まりください。お伝え申し上げることがございます」との内容でしたので、「まずは何事か話を聞こう」ということで四天竺の大王がおいでになると、臨汰大王が涙ながらに仰るには「姫のことを千尋沢の大竜がさらって、姫が亡くなってしまった。この大竜をどのようにして退治したらよろしいか。何としても姫の死体だけでも見たいのだ」と仰います。四人の大王は、「この度こそ、皆々の手柄の立て所」と言います。まず明達王がお持ちの鏡を取り出して御覧になると、姫のありどころがはっきりと見えましたので、少しほっとしました。
その時人々が、「それでは姫はどこに閉じ込められているのでしょうか。鏡の威力でお教えください」と言いますので、明達王は、「金剛女姫の居所は、この千尋沢から六水を万里潜って、石の河原を四万里、黄金の金の河原を十万里通り過ぎ、黒い水を一万里潜り、鉄の河原を一万里過ぎ、その北東の方向に、高さ百丈の金の塀をめぐらした鉄の盤の上に置いた鉄の櫃に姫を入れて鉄の蓋をして、その上に鉄の重しを載せている。この鉄の重しの高さは、一由旬すなわち四十里あり、周りは五百八十里ある。この景色を御覧なさい、皆さん」と言いましたので、身分の高い人も低い人も皆が、我も我もと鏡に見入ると、鏡の中にこの様子をはっきりと見ることができました。
「では、姫を迎えに行こう」、この場は飛行自由王の車の出番であると、王はすぐさま手の中から小さな車を取り出します。皆々、「私も迎えに行きましょう」と言っているうちに、中天竺はもちろんのこと、五天竺の人々は皆一斉に、竜宮城とかいう場所を見てやろうと、姫を救う気持ちのある者も無い者も、身分の低い女性までもこぞってこの車に乗りました。五天竺の全ての人が乗りましたが、車の中は狭いことはありません。そうして、車はほんの一瞬で水や河原を通り抜けて、あの竜宮城の鉄の囲いの上に達し、ここまでは着きましたが、鉄の門を開くことはできません。
「この場こそ力士王の力の出しどころだ」と皆が言いますので、力士王は「任せておきなさい」と言って、鉄の門は言うまでもなく、櫃の上に重しに置いた大きな鉄まで、小さな塵を払うように空中に払い棄て、櫃の蓋を取って中を御覧になると、姫の胴体は生きていた時と同じ姿でありましたが、頭は粉々に砕けて亡くなられていました。亡くなられてからの日数はまだ五日です。亡くなられて七日以内なので、人々が「この場は施薬王の出番だ」と言いますので、施薬王は「言うまでもない」と言いながら、瑠璃の壺から薬を取り出して姫の口のあたりへと注ぎますと、姫は大きな息を吐いて、生き返られました。これを見ていた人々は皆、一度にどっと喜びの声を上げました。
一行はすぐさま姫を車に乗せて、やってきた元の道に帰りました。人々が疲れて、皆空腹になって飢え死にをしそうになったので、力士王がふたたび、「私が二つの名を持っている功徳を示すのはここである」と仰って、「福徳王、ここにあり」と言いながら人々を車に乗せたまま、人々の好みに合わせていろいろな食べ物を与えられましたので、の一日の空腹を満たすだけでなく、皆は向こう三年、五年分の食物を体に入れた形になり、元の都ヘと帰りました。
こうして中天竺へお帰りになって、四大王が「姫を妃にいただきましょう」と言います。誰の働きももっともです。まず、明達王が仰るのは、「姫のあり所をお見せしたのだから、私が戴こう」です。飛行自由王は、「車にお乗せして往復したのだから、私が戴こう」と言い、力士王は、「鉄の門を開け、鉄の重しをどけたのだから、私が戴こう」と言います。施薬王は、「とうに亡くなられていた姫でしたが、私の薬で生き返られたのだから、私が戴こう」と言います。
確かに、明達王の鏡がなければ、どうして姫のあり所を知ることができようか。飛行自由王の車に乗らなければ、どうして竜宮城までの数万里の道の往復を何の障りもなく行くことができたであろうか。力士王の力がなければ、どうして鉄の門を開け、鉄の重しをどけることができたであろうか。福天王の素晴らしい宝がなければ、飢え死にをしそうな人が生き延びることはできなかっただろう。施薬王の薬がなければ、姫はどうやって蘇ったであろうか。こう考えると、どの王の働きが優れ、劣っているかを定められようか。臨汰大王は、このように考えて、自分では誰と決める判断はできない状態です。
ここに、釈応智仏と言う仏様が、人々のために法をお説きになっていらっしゃるので、臨汰王が、「さあ、仏様の所へ伺ってお尋ねをして、仏様の仰せに従って、姫を妃として差し上げよう」と四天竺の大王に伝えますと、四大王も「それが良い」と仰って、仏様の前に参上しました。この仏様はすべてを見通す力をお持ちなので、すぐに全てをお悟りになって、大王たちを招き入れなさいました。
臨汰大王は、仏前に出て、「私、臨汰大王の娘金剛女を妃にと求める四天竺の使いが、同じ日同じ時に、同じ形で参りましたので、それではそれぞれの力を示すようにと申しましたところ、それぞれに力を出しました。その力はみな同様でありましたので、姫を誰に授けるという承諾の返事をしないままにしておいたところ、それならば我が国の都を攻めようと申します。このままでは軍勢が押し寄せて参りますので、この成り行きをあなた様に申し上げて、あなた様のご判断に依りたいと存じます」と申し上げます。
仏様が仰るには、「だから、凡人の駄目なところはここであるぞ。皆、しばらく心を鎮めて、私の話をよく聞くように。今から五天竺の大王たちの過去の姿を説こう。昔、五天竺の片隅に、尭当法師と言う貧しい者がいた。子を五人持っていて、四人は男子、一人は女子であった。この法師が死んだ後に、五人の子供は親の後世を弔おうとしたが、貧しくて三度の食事にも事欠くありさまであったから、心だけは何とかせねばとは思ったが、後世を弔う資力が無い。五人は、仕方ない、それならば自身の体を使って、気持ちの届く後世の弔いをしようと、男子四人、女子一人それぞれに、思い思いの働きをしたのだ。
*子のうちの一人は山に入り、重い薪を背負った木樵に代わってその薪を背負い、自分よりも貧しい者には薪を採り集めて与えて、供養の気持ちを表した。一人は野山に出掛けて薬になる木や草を採り集めておいて、路傍に立って、病弱な人や体調の悪い人が苦しむ時に薬を与えた。一人は道にいて、自分よりも年を取って弱っている人が通る時に背負ってその家まで送り届け、幼い者は抱いて寝室へと届け、目の見えない人の杖代わりになって、供養の心を尽くした。一人は我が身を使用人として売って、その代金で仏前の灯明を買って仏に供養した。一人の女子は、尊い寺の近くに住み、寺の僧たちの僧衣を、山中の清んだ水の流れる河で濯ぎ洗濯の奉仕をして供養の目的を果たして、五人の者どれもどれも一心に心を籠めて、親の菩提を弔ったので、天の梵天も帝釈天もこの子たちの親への供養の心に感動されて、五人はそのままに生まれ変わって、今、五天竺に生まれ男子四人は東西南北四方の天竺の大王となり、女子は中天竺の臨汰王の娘金剛女となったのである。
薬を人に与た者は、その功徳で東方の王となって、施薬王として生まれた。生涯を終えた後は、薬師という仏になるのである。仏前に灯明を捧げた者は明達王となって、西天竺の王となった。生涯を終えた後は、阿弥陀という仏になるのである。重い薪を背負って木樵に代わった者は、その因縁によって、力士王・福転王となったのである。生涯を終えた後は、声聞仏という仏になって、北方を統率するのである。年取った者を背負い、幼い子を抱いて供養の志を果たした者は、そのことによって飛行自由王となって南天竺の王となり、生涯を終えた後は施無波羅耶という仏になるのである。さらに、姫は、僧たちの衣を洗濯した功徳によって、今、中天竺の臨汰大王の娘金剛女となった。このように、そなたたちきょうだい五人、皆血の繋がりのあるのに、姫を妃に迎えようと争うのは、呆れ果てたことである」とお諭しがありましたので、人々は恥ずかしく思い、仏様に拝礼申し上げました。
その時に、姫が仰います。「すべては親の供養をするための気持ちが深かったから男子四人兄弟は、必ず仏に成ると仰います。私も一心に供養の心を尽くしましたので、今臨汰大王の娘とは生まれましたが、来世にはどうなるのかと仰ってくださらないのですね」と嘆かれます。すると仏様は、「そなたは、あの寺の麓の川で僧の衣を洗濯しているときに、足元の石の下に小さい蟹がいたのを知らないで踏み殺してしまった。その罪のために千尋の沢で竜に攫われたのである。攫った竜は、踏み殺された蟹である。僧の衣の汁を飲んだおかげで、生まれ変わって竜となったのである。金剛女は来世は天女になって五楽の楽しみを受け、その後には吉祥天女となるのである」とお示しになりました。
四方の大王は仏様の言葉をお聞きになって、「それでは親の供養のために心をこめて務めたことで、現在のこの身を受けたのに、前世を知らずに、兄弟が肉親を妃に迎えようとしたのが恥ずかしい」と悔いる気持ちを表しましたので、仏様は四大王に、「皆々、過去の修行の位から進んで、名を改めて、親孝行の者を守護するようなさい」と仰って、すぐさま、四大王は、多聞天、持国天、増長天、広目天と姿を変えられ、世界の北東西南の角にお立ちになり、親孝行の者をお守りになるということです。金剛女は、吉祥天女と姿を変えて、多聞天の妹となってこれまた親孝行の者をお守りになるということです。
でありますから、この四天王について、どうして四天王と言うのかと言えば、東西南北の四天竺の王でいらっしゃるからです。そこで四天王は、四方の角にお立ちになられています。
親に孝行ある子は、この四天王が必ずお守りになります。もし万一、このことが真実でないならば、四天王と言う名はすたれるであろうと、四方王経にも説かれています。
付録 波斯匿王の娘金剛醜女の語 (今昔物語集巻三の十四)
時は昔のこと、天竺の舎衛国(しゃえこく)に王様がいました。その名を波斯匿王(はしのくおう)と言います。お后を末利夫人と言います。このお后のお顔形が整っていて美しいことは、天竺の他の十六の国中を探しても並ぶ女性がいません。お后は一人の女の子を生みました。その女の子の姿は、肌は毒蛇の皮のようで、とても生臭くて、臭さに人が近づくことができません。髪の毛は太く、悪意があるように左に巻いちぢれていて、まるで鬼のようです。その子の姿は、どこをとっても人間とは思えません。そのような姿でありましたから、大王とお后と乳母の三人が相談して、周りの人にはこの子のことは全く見せないようにしました。大王はお后に、「あなたが生んだ子は、どうにも直しようのない固い金剛のような醜さで金剛醜女と呼ぶべ女の子だ。とても怖ろしい子だ。さっさとこの王宮と別の所に閉じ込めてしまおう」と仰って、王宮を北に離れること二里の場所に一丈四方の小さな建物を建てて、乳母と身の回りの世話をする女房一人を付けて、その建物の中に閉じ込めて、ほかの人を出入りさせないようにしました。
この金剛醜女が十二、三歳になる頃に、その母親の末利夫人の容貌が整って美しいことから、まだ見ぬ娘の容姿も美しいであろうと推し量って、天竺の他の十六の大国の王が皆、后にしたいと願ってきました。けれども、父の大王はこの申し入れを受けずに、一人の家臣を急に大臣に任じて娘の聟とし、金剛醜女と一緒に暮らさせました。このにわか大臣は、自分から望んだことでもなく聟にされ、このような怖ろしい立場になって、毎日昼も夜もあれこれと嘆きに沈んでいることは止めどがありません。それでも、大王の命令には背くことができないので、金剛醜女と同じ部屋の中で一緒に暮らしました。
そのような時に、父の大王はかねてからの一生の大きな願いとして、仏の教えを説く会を念入りに準備して開かれました。金剛醜女は王の長女ではありますが、その姿が醜いためにこの会に呼ばれません。多くの大臣たちは金剛醜女の実際の姿を知りませんので、金剛醜女がここに来ないことを不思議に思い、事情を知るために計略を巡らして、聟の大臣に酒を飲ませ、大臣がすっかり酔ってしまった時に大臣の腰に指してある部屋の鍵をそっと抜いて、下役に金剛醜女の様子を見てくるようにその部屋へと行かせした。そのような計略が進められていましたが、この様子見の使いが部屋にまだ到着しない時のこと、金剛醜女は部屋の中に一人でいて、会に出られないことを悲しんで、「お釈迦様、お願い申し上げます。私の姿をすぐさま美しくして、お父様の会に出させてください」と言いました。その時にお釈迦様は庭の中に姿を現されました。金剛醜女はこのお釈迦様のお姿を拝見して、心からの喜びが湧きました。仏様を迎えて喜びの心が湧いたので、すぐさま金剛醜女の体にはお釈迦様のすべてが揃った美しいお姿がそのままに移されたように非の打ち所のない美しさになりました。金剛女が夫の大臣にこのことをすぐに知らせようと思っている時に、他の大臣から遣わされた下役の役人がそっとやってきて建物の透き間から覗き込むと、部屋の中には一人の女性がいました。その顔も姿も美しいことは、まるで三十二相揃った仏様のようです。下役の役人は、戻って大臣たちに、「全く思いがけない人がいました。私はこれまであのような美しい女性の姿を見たことがありません」と報告しました。
金剛女の聟の大臣が酒の酔いから醒めて部屋へ行って見ると、見たことのない美しい女性がいました。大臣はその女性に近寄ることをしないで、不思議に思って、「私の部屋においでになったのはどなたですか」と尋ねました。女性は、「私はあなたの妻の金剛女です」と答えました。大臣は、「そんなことは決してない」と言いました。女性は、「私は急いで、お父様の会に出ます。私は、お釈迦様がおいでくださって親しくお導きをいただいたお蔭で、このような姿に替わることになりました」と言いました。大臣はこの金剛女の言葉を聞いて、大王のいる宮殿に走り帰って、大王にこのことを報告しました。
大王とお后は宮殿でこの話を聞いて驚き、すぐさま輿に乗って金剛女の部屋へとお出かけになって金剛女をご覧になると、その姿が実にこの世ならず整って美しく、何かに譬えようがありません。大王はすぐさま金剛女を迎え取り、宮中へと連れて来ました。金剛女は願いの通り、仏の教えを聞く会に参加できましたので、大王は金剛女と一緒にお釈迦様のもとへと参上して、今般のいきさつを細々とお尋ねしました。
お釈迦様は、「よろしい、説いて聞かせよう。この金剛女という女性は、昔、そなたの家の炊事をする役であった。そなたの家に一人の聖人がやって来て、布施を求めた。そなたは、善き事を願って願を掛けておったから、一俵の米を用意して、家にいる上下の使用人一人一人に善根を施させようとこの米を握らせて、それぞれにこの聖を供養させた。人々が供養している中で、この女は、供養をしていながら、聖の姿が醜いと悪くなじった。聖は何も言わずに王の前に来て、不可思議な力を表して空中へと上がってこの世を去ってしまった。その炊事の女は、この聖の不可思議な姿を見て激しく泣いて、姿の醜さを責めた罪を悔い悲しんで、その聖を供養したので、今、大王の娘として生まれたのであるが、聖を悪く言った罪のために、鬼の形を受けて生まれた。だか、また一方、罪を悔いて深く懺悔をしたので、私の教え導きを受けて、鬼の形を改めて、美しく整った姿となり、永く仏道に縁を結ぶことになったのである。このような次第であるから仏道にある聖を決して悪く責めてはならない。また、仮に罪を作ることがあっても、心の底から懺悔をすることが大切である。懺悔は、良い結果を招くための最も良い第一歩であるのだ」とお説きになったと語り伝えている、ということであります。
藤袋の草子 福福亭とん平の意訳
藤袋の草子
《始めに》この物語は登場人物の名前がありません。どこにでもいるような夫婦一家と娘の物語です。判りやすいように、翁(おきな・おおじ)を喜六(四十代)、姥をお松(同年代)、娘をおもよと名付けて民話風に意訳します。
昔のことです。近江の国のある山里に住んでいる喜六が、花の霊力で飛び散る悪霊や疫病神を鎮める鎮花祭の手伝いとして都へ上って、祭りが終わりましたので故郷へと帰りました。その途中のある道端に、赤ん坊がお盆のような板に載せて捨ててありました。喜六が見ると、この赤ん坊は、輝くような美しいの女の子でした。喜六は、この歳まで子どもがないから、何としてもこの子を拾って帰って自分の娘として育て上げようと思って、懐へ入れました。赤ん坊を大切に抱いて帰る道はいつもよりも遠く感じられました。
そうして喜六は山里にある自分の家に帰って、妻のお松に、この赤ん坊は捨て子にされていたので、我らの子として育てるつもりで拾ってきたということを話して、赤ん坊を見せます。お松も心の優しい人でしたから、とても喜びました。お松は赤ん坊の境遇を哀れに思って、実の子のように大切に心を籠めて育て、早く大きくなることを楽しみにしていました。
その後、だんだんに時が過ぎ、おもよと名付けられたこの子は、もう大人の年齢の十三、四歳になりました。おもよは、同年代の子たちよりもずっと大人びて可愛くなり、夫婦の貧しい暮らしの中でしたが、少しもやつれたところがなく、まことに輝く姿でありました。
そんなある日、喜六は畠を耕していましたが、あまりにもくたびれたので、少し休みをとって、「たとえどこかの山の猿であってもも良いから、誰かこの畠を耕してくれないものかなあ。耕してくれたらおもよを与えて、婿にしてやろう」と何の考えもなく独り言をつぶやきますと、どこにいてこの言葉を聞いたのでしょうか、大きな猿がやって来て、畠を耕してしまい、「明日は申の日で吉日じゃ。仰った約束を破らないでくだされよ」と意って姿を消してしまいました。
喜六は、つまらない独り言をつぶやいてしまったと、とても後悔しました。
喜六が家に帰ると、お松は急いで喜六の夕飯の仕度をして、「どうしました。さぞかしくたびれたことでしょう。さあ。召し上がれ」と言いました。ですが、喜六は橋を取ろうともしないで、物思いにふけっている顔付きでした。そこで、お松は妙だなと思って喜六に、「お前様、何を考え込んでおられる」と尋ねました。隠し通すことができないことなので、喜六は畠であったことをあらいざらいお松に話しました。お松は、「まあ、何とも馬鹿なことを口にしたものじゃ」ととても怒って喜六を叱りつけました。
喜六は、明日になったらきっと猿がおもよを迎えに来ることだろう、おもよを連れて都へと逃げたとしても、その道中でおもよを猿に奪い取られるだろう、さあ、どうしたらよかろうかと考えました。そして、涙ながらに家の裏の藪を掘って、可哀想ではあるけれども仕方ないとおもよを大きな櫃に食べ物と一緒に入れて、地中へと埋めて隠しました。喜六とお松は、向かいの山の中へ隠れて、猿がやって来る様子をうかがっていました。
昨日の大きな猿は、昼過ぎの申の時に、乗るための馬を牽かせて、自身は輿に乗っておもよを迎えにきました。喜六夫婦の家に来てみると、誰もいなくて、ひっそりとしています。猿たちは妙だなと思ったのでしょうか、屋根の上、板敷きの下までも、きいきいと言いながら家中を探しましたが、誰もいません。大猿は、供に付いてきた猿をどこかへ行かせました。すると供猿は、みすぼらしい猿を連れて戻って来ました。このみすぼらしい猿は占い者だったようで、算木を置いてあれこれと占っていましたが、その後に家の裏の藪を掘らせました。お松と喜六は離れた山の木の陰からこの様子を見て、とても悲しく、駆け寄って櫃に取りすがろうかとは思いましたが、それはできないと思って、泣きながらおもよのことを案じて見守っているだけでした。二人がここでわずかに出来たことは、昔からずっと信仰してきた清水寺の方向を伏し拝み、なにとぞおもよが無事でありますようにお守りくださいと深く祈ることだけでした。
大猿はおもよを掘り出したので喜んだ様子で、自分が乗ってきた輿におもよを乗せて、まるで鳥が飛び立つようにねぐらへと帰りましたので、喜六とお松は、まるで夢を見ているような気持ちになって、泣く泣く猿が消えた山の奥へと跡をたどって入って行きました。二人は、おもよはどんなに悲しい気持ちでいるのだろうと思われ、二人はおもよのことがは可哀想でなりませんでした。
猿たちが道も無く入って行った険しい山の中には、屋根を柴で葺いた家がありました。その家の中におもよを輿から下ろして、婿の大猿はおもよに近付いていろいろと軽口をたたいて、おもよをなごませようとしましたが、おもよは顔を上げようともしないで、大声で泣いています。そこで猿たちは、おもよの気を紛らそうと、酒盛りをして舞ったり歌ったりの宴を始めました。
それでもますます恐ろしく思ったのでしょう、おもよは少しも気が晴れないままで、薄衣を被って泣き伏していました。婿の大猿はおもよをもてあまして、「それでは、山へ行って珍しい果物や木の実を採って来て差し上げよう」と言って出掛けかけましたが、すぐに戻って来て、「出掛けた後に、もしかして他の者に心を移して逃げることがあるかもしれない」と言って、藤袋と呼ばれる藤の蔓で編んだ籠の中におもよを入れて、それを高い木の枝の先に結び下げました。そこに見張りの猿を一匹残して、猿たちは山へと行きました。
喜六とお松は、何とかして藤袋の中の娘を取り下ろしたいと、じだんだを踏んで見上げていました。そこへ、観音様の御恵みでしょうか、大勢の狩の一行がやって来ました。喜六はこの人たちを見て喜んで、一行の中の主と思われる馬に乗った人の前に出てお辞儀をして、この藤袋が下げられた事の起こりからの一部始終を包み隠さずに話しました。この人は情け深い人でしたので、「どのようにしたらよかろう」とお供の人たちと相談しました。
藤袋が結び付けられているのは木の高いところでしたので、人間ではとても登って下ろすことができないということを人々が言いました。そこで、平次という者が供の中で弓の上手でしたので、「お前の弓で射て、あの藤袋を吊ってある縄を切れ」と言うことになりました。平次は、「射損なったならば、中の女性に当たってしまいます」と意って尻込みをしましたが、喜六が、「このままであっても、おもよが猿に従わなければ、しまいには猿に食い殺されてしまうでしょうから、一緒のことです。どうせのことに射てください」と一心に言います。そこに加えて主もしきりに平次に弓を射るようにと命じますので、平次は断ることもできずに、仕方なく引き受けました。平次は、ここが自分にとって一番の大事の勝負の場だと思い定めて、一心に神仏の力添えを祈りました。源平の戦の折に、那須与一が屋島で平家方から出された扇の的を射た時もこのようであったと思われます。周りの人々もうまく当たるようにと祈りを籠めて見守っているうちに、平次は藤袋を吊り下げていた紐をものの見事に、先が分かれた雁股の矢で射切りました。喜六もお松もとても喜びました。この時、藤袋の下には小袖を敷いて、袋が落ちるところを受けましたので、おもよは無事に地上に着きました。
さて、藤袋の蓋を取って中を見ると、おもよは流した涙で繭墨を始めとして化粧が崩れてしまい、髪は涙が絞れるほどにで濡れてしまっていましたが、おもよのひどい姿でも、世間の普通の人がきちんと化粧をした姿よりも遥かに綺麗でした。
狩の一行の主はこのおもよの姿を見て、早くもおもよに恋心を抱き、すぐにも自分のものとして館へと連れ帰ろうと思いましたが、何もしないままに猿が帰って来たら、面倒が起こるだろうと思って、狩のために連れてきた秘蔵の狸捕りの名犬をこの藤袋に入れて、そこにいた留守役の猿に、「もとのように木の枝に結び付けて来い。しないと矢で射殺してしまうぞ」ときつく命じました。留守役の猿は顔を赤くしながら木に登って、もとのように結び付けてきました。「いいか、猿たちが帰って来た時に、このことを決してこうだと話してはならない。言い付けに従えば命だけは助けてやる」と強く命じて、一行と喜六一家は、向かいの山へと入って,猿たちの帰るのを待ち構えていました。
この狩の一行の主は、おもよを迎え取るために載せる輿を取りに行かせました。ちょうどその間に、猿たちが、いろいろな果物や木の実をたくさん籠に入れて、大勢で帰って来ました。その様子は、普段粗暴な猿にしては、とてもかわいらしく見えました。「万一、猿どもがこのおもよを見付けて取り返しに来たら、皆殺してしまえ」との命令で、人々は岩の陰、木の根元に隠れていました。
さて、帰って来た猿たちは藤袋をすぐに下ろそうとはしないで、「ここで姫君を題にして歌を詠んで、姫をお慰めしよう」ということになり、木の葉の短冊と筆硯を出してそれぞれに歌を考えている様子は滑稽なものでした。
一同が順に歌を披露する中で、留守役の猿は、姫がいないことをそれとなく知らせようと思ったのでしょうか、それとない喩えの歌として「おろかなり枝に下がれる袋にはいがみ面なる物ぞ入りたる(ご存じないのですか、枝に下がっている袋には、姫ではなく怖いしかめ顔の物が代わりに入っていますよ)」と詠みましたが、この祝いの席に「おろかなり」や「いがみ面」などという馬鹿にしたり姫をけなすという、場にそぐわない不吉な歌を詠んだということで座敷から追い出されてしまいました。
めでたい歌が一通り揃ったということで、木から袋を下ろして、袋の蓋を開けたところ、中から狸捕りの名剣が飛び出して、婿の大猿の喉元へと食い付きました。この光景を見て。他の猿たちが逃げ惑ったところへ、狩の一行が木蔭から放して猿に掛からせましたので、猿たちはあちらこちらで犬に咬み殺されたり、狩の人々に殴り殺されました。留守役の猿は、言いつけを守った忠義な猿だとして、命を助けられました。
狩の主が、「昔、周の武王は、渭水という川のほとりで太公望という名将を得た。今の私は、思いがけずに美しい女性を連れ合いとして得たことだ」と言って、この上なく喜びました。狩人たちは猿たちの皮を剝いで、おもよを輿に載せて、喜六とお松を連れて山を出て、主の館へと急いで帰りました。
それから後、主は、おもよを妻として、とてもとても大切に扱いました。喜六とお松にも、別に館を建てて世話をしました。矢を見事に射た平次は手柄者として、一つの領地を与えられました。留守役の猿は厩で馬の飼育をさせました。このようにおもよが楽しく暮らせたことは、何よりも、観音様の御利益であるということです。
熊野の本地 後編 福福亭とん平の意訳
熊野の本地 後編
その後、月日は次々と過ぎゆき、女御の遺骸は雨、露、雪、霜が当たって朽ちてきて、ついに白骨となってしまいました。ですが、女御の左の乳房だけは生前と色も変わらずに乳を出して、王子に飲ませ続けました。こうして王子が成長して、昼間は山の中に出て獣たちに養われ、夜は亡くなった母女御に添い寝をして、いつしか月日が経ち、早くも三年が経ちました。
虎と狼が話し合うことには、「我々がお守りしようとした時ももはやその期限となった。今はもう女御のご遺骸をお隠ししよう」と、して、あちこちに散った骨を採り集めて、岩の間に木の葉で埋め申し、虎と狼は自分のねぐらへと帰り、その後、王子は一人になり、峰に上ったり谷に降ったりして、悲しまれることはこの上ありませんでした。
御山の陰にいる虎や狼という存在は馴れない人にはいやな姿ですが、三年という年月そばに過ごしてきましたので、王子にとって虎や狼は今さらながら懐しく思われます。その獣さえも散り散りに姿を消してしまったので、幼心でもいっそうの嘆きと思われてお気の毒です。こうして年月が重なって、王子は三歳におなりになりました。
ところで、この山の麓に智見上人という尊い聖がいらっしゃいました。ある時、お経を読もうとして巻物の紐を解いて開くと、虫食いがあります。よくよくご覧になると一首の歌です。
孤児を育つる山の御聖尋ねみ給へ返す返すも
(孤児を育てている山においでのお聖様、その孤児を見付かるまで何度も何度も探してください)
上人はこれをご覧になって、不思議とお思いになり、これはきっと十羅刹女のお告げであろうと思ってこの歌を導きとして山にお入りになると、相輪という峰に幼い子の姿が見えました。
その幼い子は上人をご覧になって、上人の声に、「私は摩訶陀国の大王の子です。母は五衰殿の女御と言った者ですが、この山で首を切られなさいました。その時に私も共に死ぬ運命でしたが、不思議にも獣たちに育てられ、また、母の遺した乳房の乳を飲んで、今年三歳になります。昨晩、養ってくれた虎と狼が母の死骸を隠して、どこへとも知れずに姿を消しました。母が、『そなたが三歳に三歳になった春の頃に、この山の麓に智見聖という方がそなたを尋ねておいでになるであろう。その方の元に行って学問をして、私の後世を弔いなさい』と御遺言なさったことが、今だに耳に残っております。それでは、あなたがその方でいらっしゃいますか」と上人に抱き着かれたのは、しみじみとしたことでありました。
上人は王子の言葉をお聞きになり、「それでは、あのお経の虫食いの歌は、お母様の五衰殿の女御のお詠みになった歌なのでしょう。仮に、この山の鬼や魔物の歌であっても、行って迎えよう」と、遥かの谷を越えて、王子を抱いて「真夏の暑い日、誰がそなたに扇をかざし、また冬の厳しい寒さの夜に夜着を重ねてあげたのだろう。まるで、空を飛ぶ鳥の翼が落ち、魚が水から離れて動きがとれず、また、岸のへりから根が離れた草や入り江の中で繋がれていない舟が寄る辺がないようになって、一人月日を送り年を迎えて、三歳まで成長されたことは、不思議であり、またこのようにおかわいそうなことが、この世にほかにありましょうか」と言って、墨染めの僧衣の袖を涙で濡らされます。
王子は、この山から出ることを喜びながらも、「お母様の御遺骸をこのままに置いておくことはこの上ない嘆きです。どうしましょう」と仰るのを上人はお聞きになり、「ご安心ください。私がよろしいようにご供養いたしましょう」と言って、岩の間の木の葉の下に隠された女御の骨を取り集めて、香木の栴檀を積み上げて火葬にいたしました。王子はこれをご覧になって、「三年の間は、御遺骸を生きていらっしゃるお母様に向かっているように添い申し上げていましたが、これから後はいつの世にお会いできるののでしょうか」と歎かれて、歌を一首、このように、
世の中にありふる人の果て見ればただ一時の煙なりけり
(世の中に生きて長らえる人の行く末を見れば、ただ一時の煙なのだな)
とお詠みになり、上人と一緒にお骨を拾って麓の寺ヘと帰り、春の花咲く時も、秋の夜長の時も、片時も弛むこと亡く学問をなさいました。また、五衰殿の女御の菩提を弔われることは子として素晴らしいことです。
このようにして、王子はこの寺に年月をお送りになり、日夜絶えず母上の五衰殿の女御のことを思って、忘れることなくお経をお詠みになり、後の弔いをなさいます。
だんだんに年が重なって七歳におなりになる春の頃に、王子は上人に向かって、「母上の御遺言に『七歳になったら、父の大王の所に参上するように』とありましたが、どうしたらよいでしょう」と仰って、涙を流されました。上人はこれを憐れに思って、「お気持ちの通り、併せて母上に御遺言に従って、私はお供します。摩訶陀国へ出掛けて行って、大王に事情を申し上げてあなたを内裏にお入れしましょう」と言って、王子を同じ寺の僧の肩に乗せ、上人がお供して、摩訶陀国ヘと急ぎます。王子が嬉しく思うことはこの上なく、「鳥ならば飛んで行くものを」などと口にされ、「父の大王という方について、お名前だけでも聞かせてください」と、母の五衰殿の女御が言い遺した言葉を頼りにして内裏へと参上して、母のお気持ちを遂げようとお思いになる御決意は立派なことです。
一行は夜昼の区別なく道中を急いだ結果、早くも摩訶陀国にお着きになりました。ちょうどその時、大王は南楼にお上がりになって、周りの木々をご覧になっておいでの時で、とても美しい子を僧が守っているのをご覧になって、「ああ、あの子が私の子ならば王位に就けよう、そうであったらどれだけ嬉しいことか」というようにしみじみと思ってお嘆きになる間に、その少年が大王の御前にやって来ました。大王が少年をご覧になって、「どちらからおいでになったですか。ご両親はどなたでしょうか」とお尋ねになりますと、少年は恨めしく思ってしばらくの間何も仰いませんでした。しばらく経って、涙を流しながら、「大王がご存じではないのも、もっともです。私の母は五衰殿の女御です。私を腹に宿されたために、九百九十九人の后たちから、無いことをあれこれと大王に言いつけて、その上に、大王の命令として武士に命じて、ここから遥か離れた「しやく王」という鬼神の住みかへと送り、首を切ってしまったのです。私はその時母と一緒に死ぬはずであったのですが、仏神ならびに三宝のお助けで急に生まれて、今日まで命が延びたのです。この年月は智見上人にお育てによってこれまで成長しました。母上の御遺言に、『そなたが七歳になったなら、お父様の大王の御前に行って、これまでの物語を全部細かにお話しなさい』とありましたので、智見上人が同道してくださり、ここまで参りました」と仰いますと、大王はこれを聞いて、今のことは夢とも現実かとも分からなくなり、しばらく呆然となさいました。しばらく経って、「懐胎した五衰殿の女御の姿が消えてからの年月を数え合わせれば、もう七年である。五衰殿の女御の姿が見えなくなったのはどのような魔物の仕業かと嘆かわしく思っていたが、それでは、九百九十九人の后たちのやったことであったのか。なんとまあ、呆れたことじゃ」と仰って、大王は目に涙を浮かべられ、て、「ああ、何ともつらく嫌な世の中であるな」と、恨み嘆かれることはこの上ありません。
大王が、「今はもうこうなりましたから、私の近くにいて、過ぎ去った昔の苦しいことや辛いことを語って心を慰めようではないか」と仰ると、王子は、「私はたまたま大王の血筋を受け継ぐということですが、どうしたことの報いなのか王宮を離れ、遥か離れたお山の奥に生まれて、鳥や獣を友として木の葉を衣として身に着け、木の根を枕としていました。このようなつまらない身がどうして玉座に着くことができましょうか。と仰って、涙に咽ばれるのでした。大王はこの姿をご覧になって「まことにもっともなことです。九百九十九人の后たちを呼び出して、一か所で殺してしまおう。それであなたの恨みを晴らしてくだされ」と仰ると、王子は、「多くの后たちを殺したとしても、亡くなられた母の五衰殿の女御が生き返られるということはありません。かえってその罪咎はは大きいものです。后たちの命はお助けください」と仰って、さらに、「一つのお願いは、こちらに持ってこられた母の御首をいただいて、ご供養申し上げたいと存じます」と仰いましたので、大王はこの言葉をお聞きになりながら、九百九十九人の后たちを呼び出して、「そなたたちはこの私をどうなれと思ってうしろめたい悪い計略を巡らし、せっかく子を宿して、私が思いのままに世を治められるようにとしてくれた五衰殿の女御の命を奪ってしまったのだ。皆この内裏から退出なさい。また、ここへ持ってこさせた五衰殿の女御の御首をどこに置いたのだ。すぐにここへ出しなさい」と、怒ってお命じになりますと、后たちはこのお言葉を伺って、「それでは、もう、全部露顕してしまったのか」と思って、互いに目と目を見合わせて、「私は人に従った、自分でやったのではない」とごまかし、「あの人は私にやらせた」と、それぞれに勝手様々の言い訳をしましたので、この振る舞いを見る人も聞く人も、「あきれた情けないことだ」と憎まない人はいませんでした。
さて、大王は武士たちを呼び出して内々に、「地の底七尺に埋められている五衰殿の女御の御首を掘り出して参れ」と命じられました。武士たちはすぐさま御首を掘り出して大王にお見せします。王子はこの御首をご覧になり、女御の姿がかすかすかにしかわからないほどに傷んだ御首を手に取って言葉無くお泣きになると、大王も智見上人もその場にいる人も皆、涙に咽びました。「ああ、このようなことは世に他にないであろう」と嘆く声は、天にも響くばかりの大きなものでした。
しばらく経って、王子は母五衰殿の女御の御首を自らお持ちになり、築山の陰で香木の栴檀を積み上げて荼毘に付し、遺骨を自分で拾って、五衰殿の女御が長年住み慣れた宮の五衰殿へと移られて、母上がいつも信仰なさっていた観世音菩薩の前で供養をなさいました。大王がおいでになって、「ああ、まことに五衰殿の女御が生きていらして、王子と三人でこの場にいたら、どれくらい嬉しかったことであろう。悲しい中でも喜びは、王子が不思議に生きていて会えたことだよ。さあ早く王位についてくれよ」と仰ると、王子は、「大王のお言葉は有難いとは存じますが、お母様が亡くなられたことが心から離れません。この上は、ただお暇をいただいて出家遁世して、国々を廻る修行者となり、母上の後世を弔いましょう」と仰います。そこで大王が、「亡くなった母は親で、現在生きている父は親ではないということか。私の命に背かずに王位にお就きになれば現世の父に対しての孝行になり、その上で亡くなった母を弔えば、現世来世の二世の願いが一度に叶うではないか」と仰せになりますと、王子は、「大王がお決めになったことに言葉を返すのは畏れ多いことですが、悉達太子は釈迦一族の王宮を出て阿羅邏仙人から千年前のことをお習いになって仏と成られ、その後に、お母様の摩耶夫人へのご供養のために、ひと夏九十日の間、『摩耶経』というお経の説法をなさいました。また、目連尊者は、お母様が餓鬼道へ墜ちられたのを悲しんで、七月に『盂蘭盆経』を声を出してお読みになり、千人の僧にいろいろな飲み物食べ物を手向けて供養した結果、母上は餓鬼道の苦しみから逃れられたことがあります。これらのことをどのようにお思いになりますか。私が出家して仏道修行をするならば、お母様の亡き霊が成仏得脱なさり、また父大王への御祈りも怠ることがなければ、このようなつらい世の諸々の嫌なことも皆好くなって、この孝行は、風は枝に音を立てさせないほどに穏やかに吹き、雨は土を動かさないように静かに降り、五穀は皆豊かに実り、人々は盗賊の怖れがなく戸に錠を掛けることもいらないという平穏無事な世になって、周りの国々までも従えて、そこから昼夜の別なく運んでくる貢ぎ物の数々にさらに千個万個の宝物を添えての捧げ物も思いのままに集まりましょう。ただただお暇をいただいて出家の望みを遂げてしまいます。しかも、お母様は私を懐胎されたために、世にためしのない苦労をなさって、終に命を落とされたことがあります。私が王位に就いたならば、時に触れて物事に対する考え方が変わってしまい、いつしか王としての世の営みに紛れて、供養も疎かになってしまえば、その咎めが恐ろしく、また来世の成仏の妨げにもなりましょう」と、道理を細々とお話になられると、大王は言葉に詰まってしまい、ただ涙を流されるだけです。智見上人ももちろん、この御言葉に「まことにお道理です」と仰って墨染めの衣の袖を濡らされました。そこにいた人々は、位の上下を問わず皆袖に涙を落として、お気の毒にととても深く悲しみました。
大王は上人をお呼びになり、「王子が出家遁世の望みが強く、王位に就く気持ちが全く無い。私はたまたま子を授かって位を譲ろうと喜んだのに、その甲斐がない」と仰せになりますと、上人は、「王子様の出家の望みは、お母様のことを深くお嘆きになるためです。そのお心をお慰めすれば世を治めるお気持ちも出て参りましょう。私が長い年月摘んできた修行が空しくないならば、仏神・三宝に深く祈って、五衰殿の女御を再び生き返らせられるでしょう」と答えます。その言葉に大王は「ありがたいお言葉ですな」と感動されました。王子は、「これはどういうことであっても、とても嬉しいです」と仰って、皆が心を一つにして0祈りをなさいました。
上人は段を飾って五衰殿の御遺骨を据えて、多くの灯火を並べ、いろいろの香をたき、種々の花を捧げて、一心に秘法を行いました。七日という満願の日になると、上人はここが一番大事な祈りの時と思って、独鈷でご自分の膝を叩きます。そのような祈りの中に、仏の前から美しい容姿の女性の姿が現れました。何なのだろうとよくよく見定めると、それは五衰殿の女御が生き返られた姿で、大王は不思議にお思いになり、「これは夢なのだろうか、夢ならば覚めたらどうしよう」と仰って、王子と一緒になってとてもお喜びになりました。嬉しさにも、悲しさにも先立つものは涙で、人々は身分の上下を問わず、いっそうの涙にくれるのでした。
その後、大王と五衰殿の女御と王子は一か所においでになり、これまでに味わった憂さ辛さを互いに語り合って、嘆いたり笑ったりして、朝から晩まで尽きることなくお話をして、大王が、「このような嫌な国に長く暮らしていたら、これから先どんな辛い目に遭うことであろう。とにかく住みやすい国に行きたいものよ」と仰いましたので、女御も王子も同じお気持ちで、この国を離れることを思い立たれました。
九百九十九人の后たちを摩訶陀国に捨て置いて、大王を始めとして、五衰殿の女御と王子に智見上人は、そのほかの大王のお気持ちにかなった臣下たちをお供にして、飛車という雲の上を飛んで行く車にお乗りになって、東を指して飛んで行かれました。十六の大国に五百の中国を飛んで過ぎて、それほど経たないうに日本国にお着きになりました。残された后たちが天を仰いだり地に横たわったりして嘆く有様は、とても見ていられません。
その後、九百九十九人の后たちは、「我々も連れておいでください」と嘆き悲しんで、一行の跡を慕って行くところに、空中から黒雲が舞い下がって、雷が激しく鳴って鬼が飛んで来て、九百九十九人の后たち皆を大石で打ち殺してしまいました。
このようにして一行は、粟粒のように小さい国である日本の紀伊国の牟婁郡音無川の辺鄙な土地にお降りになりました。熊野の権現と申し上げるのはこの大王のことであります。
さてさて、証誠大菩薩と言うのは智見上人のことで、本地は阿弥陀如来です。結の宮、速玉宮を両所権現と申し上げます。結の宮は五衰殿の后でいらっしゃいます。速玉宮は大王で、本地は十二大願をお持ちの薬師如来です。若一王子と言うのは本地は十一面観音で、王子のことです。阿須賀社、禅師・飛行夜叉・神倉・子守・勝手、満山護法、切部、藤代、鹿の瀬、蕪坂、発心門、滝尻、浜の宮、米持金剛という宮は、どれもどれも皆、女御に忠勤をした人々が神となったものであります。
大王は、初めは本宮に落ち着き、後には新宮にその姿を顕されました。その後、那智のお山にお移りになられまして、この三か所を合わせて三つの御山、熊野三山です。この三山は三身如来の浄土で、現世は安穏に後生は善所に生まれるという土地です。お参りに来て信じ申し上げる人は、すぐさま願いがかない、子孫繁昌して、来世の極楽往生は疑いありません。深く信じてもさらに信ずるべきはこの権現様でいらっしゃいます。
九百九十九人の后たちは大王に捨てられて、「さあ、私たちも大王の跡を追いましょう」と言って、日本の土地へと出発しましたが、九百九十九匹の毒蛇になって、あちらこちらの道のほとりに倒れ伏して、権現様へ参詣される人を悩ませます。権現様はこれを憎いとお思いになり、土を守る神と山の神をお招きになり、山を揺り動かさせて崩してこの毒蛇を打ち頃されました。その毒蛇の怨念は今に五百の赤虫となって熊野詣での信者を悩ませます。ですから、「このお山で春三月は赤虫を触らない」と言っています。
さてさて、熊野の権現と言う神様は、日本第一のあらたかな権現でいらっしゃいます。人々に利益を与えるという悲願が優れていらっしゃいます。一度でも参詣する者は、長く地獄・餓鬼・畜生の三界と、仏を見られず、その法を聞くことのできない八難の悪い因縁を逃れ、十悪五逆という大罪を犯しても、一度この地を踏めばすぐさま罪は消えて、現世・来世の願いがかなったというためしは、昔から今に至るまで多くあります。これを並べ立てるとあまりに多いので、ここには書き記しません。この熊野の権現の本願を強く信ずる人は、権現に毎日参詣するのと変わりがありません。これは私一人の言葉ではありません。古人の言い伝えた言葉です。決して決して疑ってはなりません。「南無証誠殿、両所権現、若一王子、十方善所、一万の金剛童子」と、朝夕お唱えなさい。お唱えなさい。